【参勤交代とは】簡単にわかりやすく解説!!意味や目的(理由)・費用・期間など

 

最近、参勤交代をテーマとした映画が上映されましたが、参勤交代とは一体どんな制度だったかを意外に知らない人がたくさんいると思います。

 

そこで、今回はそんな『参勤交代』の詳細について簡単にわかりやすく解説していきます。

 

参勤交代とは?

(参勤交代行列図 出典:Wikipedia

 

 

参勤交代とは、江戸時代にあった制度で各藩の藩主を1年おきに江戸に参勤(勤めること)することを定めた法令です。

 

元々からいざ鎌倉!のように将軍のところで働くことはあったのですが、1635年の武家諸法度によって制度がされました。

 

参勤交代の制定と思惑

(豊臣秀吉 出典:Wikipedia)

①参勤交代の制度化

江戸に1年おきに行かなければいけない参勤交代。

 

この制度の原型は豊臣秀吉が戦国大名の妻子を大坂に住まわせたことに由来しています。

 

そして江戸時代に入ると幕府に媚びるために各大名が江戸に行って将軍に謁見する風習が出来上がり、幕府もそれに合わせて妻子を江戸に住まわせることと江戸に屋敷を建てる制度を作りました。

 

そして1635年に徳川家光によって武家諸法度が改正されると参勤交代自体が制度化していきました。

 

 

②参勤交代の目的と例外パターン

参勤交代を作った一番の理由はとにかく藩の力をなくして幕府に歯向かえないようにするためでした。

 

お金があれば武器を作って幕府に対して反乱を起こすかもしれない。しかし、お金がなくて貧乏であれば武器なんて買っている暇なってありませんよね?幕府はこうして藩の力をなくしていきました。

 

しかし、例外もあります。例えば蝦夷との交流を独占していた松前藩なんかは、のんきに江戸に行ってたら蝦夷で反乱がおきかねません。そのため松前藩は5年おき、江戸滞在は4ヶ月でOKとされていました。さらに対馬藩なんかも貿易のために参勤交代の期間を短くしてもらっていました。幕府もこれに関しては鬼ではないようですね。

 

さらに長崎奉行なんかを務めていた肥前藩と福岡藩については、参勤交代は2藩交互に100日ずつという形で期間が短くなっています。

 

他にも水戸藩のように江戸に極端に近い譜代大名はそもそも江戸に藩主がいつもいたため参勤交代はしませんでした。

 

さらに藩内で藩主が死んで新しい藩主が就任したばかりの時や、一揆などの反乱が起きた時には参勤交代をしませんでした。

 

参勤交代の費用とルート

 

 

 

参勤交代のルートは全国津々浦々に藩があったため色々異なっており、そのかかる日数も江戸に近い藩なら1日2日、対して江戸から離れている薩摩藩や熊本藩なら2ヶ月以上かかってしまうことがありました。

 

ここでは日本で一番石高があった加賀藩を例にして見てみましょう。

 

①参勤交代のルート

まずルートです。加賀藩はまず北国街道と呼ばれる街道を通り、越後(新潟)、信濃(長野)を経由して中山道に入り江戸に向かいます。このルートだったら金沢から江戸まで14日かかります。

 

参勤交代は4月に行くことになっていますが、もしかしたら非常事態が起こる可能性はありますし、しかも他の大名行列と出会ったら挨拶しなければいけなかったためなるべくスムーズに行けるように半年前から入念にルートをチェックして参勤交代に望んでいました。

 

江戸まで14日は藩の中では平均的な日数ですが、このルートが非常に難所揃いだったのです。まず、この当時半分の川には橋がかかっていません。そのため人足と呼ばれる人を使って川渡りをしなければいけません。

 

さらに川が洪水になると他のルートを通るのは幕府から禁止されているのでもうどうしようもない。足止めを食らってお金ばかり使ってしまうことになってしまいます。

 

さらに北国街道の途中にある親不知は波を鎮めなければ通れないような狭い道でしたので人を雇って波を無理矢理鎮めてようやく通ることをしていました。

 

②大名行列

 

 

参勤交代では藩主自身が江戸に赴任するようなものでしたので藩主のみならず、家老などの武士を始め、料理人、鷹匠、かかりつけの医者、茶の湯の師匠なんかも同行していました。

 

幕府からの指示では10万石レベルの中堅の大名は240人ぐらいを目安にしていましたが、やっぱり目立ちたいじゃないですか。

 

藩は見栄をはるために人員を増やして大名行列を行っていました。

 

特に加賀藩は100万石と一番石高があるのでいろんな人から『さすが加賀百万石の大名行列は違うなぁ〜』と思われなければいけません。そのため加賀藩では最高4000人を連れて行っていました。

 

しかし、さすがに4000人全員を連れていくことはしません。半分はアルバイトで雇ったサクラです。しかし、それでもお金はかかるもので加賀藩ではこの参勤交代だけで5億円かかり、さらに江戸で滞在するための屋敷の設立・管理費用なんかも全て合わせると総額10億円は軽く超えてしまうことはしばしばありました。

 

こうして多大なお金と日数をかけてようやく金沢を出発してから14日目に江戸に到着。将軍に謁見して参勤交代は終了します。

 

ちなみに、参勤交代をして江戸に藩主がいる間国元(地元のこと)は城代家老という人が藩主の代わりに政治をしているため問題ありません。

 

参勤交代の影響

①宿場町の繁栄

参勤交代が始まったことによって大名が江戸に向かう街道の途中にある宿場町は大変な賑わいを見せるようになりました。

 

さらに各藩は大名行列をスムーズにするために各地で橋の建設やインフラを整備。あの有名な錦帯橋もこの時に建てられました。

 

②江戸の文化の逆輸入

参勤交代をしたことによって、参勤交代に従っていた武士たちが江戸にやってくるようになり、江戸の文化が全国に広まっていくようになりました。

 

さらに江戸では参勤交代でやってきた武士たちでごった返しており、江戸の人口は100万人を余裕で越すほど過密でした。

 

参勤交代の終わり

 

参勤交代が決められてから時が経過し、1853年。浦賀にペリーが来航し、日本に対して開国を迫るようになっていき、幕府内では大混乱状態となっていました。

 

幕府内ではこれからは各藩が軍事力を上げていって外国に立ち向かっていこうという意見が出始め、その軍事力を上げづらくしている原因である参勤交代を緩めようとする動きが出てきます。

 

しかし、幕府にとったら参勤交代を緩めたことによって歯向かう軍事力をつけるのは幕府にとったら危機的状態です。

 

そのため参勤交代の制度をそのままにしたかったのですが、結局文久の改革の時に参勤交代の頻度を3年に一回、さらに江戸の滞在日数も100日に減らし、さらに人質として江戸にいた大名の妻子についても国元に帰ることを許すことにしました。

 

 

しかし、第二次長州征伐に幕府軍が敗北したことによって参勤交代をしない藩もちらほら出始めてしまい、そのまま幕府が消滅した大政奉還と共に参勤交代も廃止されてしまいました。

 

 

まとめ

・参勤交代とは江戸時代にあった一年おきに藩主が江戸に滞在する制度のこと。

・参勤交代はほとんどの藩がやることになっていたが、対馬藩や松前藩は貿易の関係で5年に一回とされており、さらに水戸藩などの江戸に近い譜代大名は参勤交代を免除されていた。

・参勤交代は。一回で5億円かかり、さらに加賀藩では4000人の大名行列を作って見栄を張っていた。

・参勤交代は文久の改革によって3年に一回とされさらに大政奉還と共に廃止した。