【甘粕事件とは】わかりやすく解説!!事件の原因や結果・背景について

 

甘粕事件は関東大震災直後の混乱期に起きた事件で大杉事件とも呼ばれます。

 

この混乱した時代にいったい何が起こったのでしょうか?

 

今回は、この『甘粕事件(あまかすじけん)』についてわかりやすく解説していきます。

 

甘粕事件とは?

(1920年ごろの大杉栄 出典:Wikipedia

 

 

甘粕事件とは、1923年(大正12年)9月16日、大杉栄、内縁の妻「伊藤野枝」、橘宗一(6歳)が憲兵隊に拉致され、麹町憲兵司令部で憲兵によって首を絞めて殺害。遺体が井戸に遺棄された事件のことです。

 

捜査によってすぐに内部の犯行が明らかになり、田中義一陸相が憲兵司令官小泉六一を問いただしたところ、小泉は甘粕の犯行を認めました。

 

そのため9月19日に主犯の甘粕正彦森啓次郎が衛戍監獄に収監されました。

 

甘粕事件が起こった背景

(満州国時代の甘粕正彦 )

 

 

関東大震災後は、大震災の混乱に乗じて無政府主義者が朝鮮人を扇動して騒動を起こすという噂がメディアを通して広まりました。

 

陸軍の中では、震災後の混乱に乗じて社会主義や自由主義の指導者を殺害しようとする動きも見られていました。

 

甘粕正彦はその噂を信じていたため無政府主義者の大杉を殺したとされています。

 

また、供述によれば「大杉の次は堺利彦と福田狂二を殺す予定だった」ようです。

 

国民にはどう伝わったのか?

(甘粕事件を報じた新聞 出典:Wikipedia

 

 

9月18日、「大杉夫妻が子供と共に憲兵隊に連れて行かれた」という報知新聞夕刊の記事によって噂はすぐに広まりました。

 

20日、「甘粕憲兵大尉が大杉栄を殺害」の一報を大阪朝日新聞は2度の号外を出し、時事新報は記者を憲兵隊本部に張り込ませ、大杉だけでなく伊藤野枝と子供が殺されたことや現場の井戸も確認し号外を出しました。

 

軍は20日付で突然、甘粕正彦と森慶次郎を軍法会議に送致すること、福田雅太郎戒厳司令官を更迭すること、憲兵司令官小泉六一少将と東京憲兵隊長小山介蔵憲兵大佐を停職処分にすることを発表しました。また、この事件に関して新聞記事を情報統制することを決めました。

 

新聞社は重要な部分をすべて○○と伏字にして事件を報じました。

 

また、甘粕が16日夜に大杉栄と2名を殺害したと公表しましたが、2名が何者であるかは公表しなかったため人々の不安が広まりました。

 

10月8日、情報統制が解除されると、新聞は2名が、伊藤野枝と橘宗一であることを報じ、世間は有名だった大杉・伊藤と、6歳の小児までが殺されたことがわかり騒然となりました。

 

ちなみに大杉栄と伊藤野枝は事件前恋愛スキャンダルで日本を騒がせたそうです。

 

取り調べと事件の調査で分かったこと

 

9月24日の軍法会議予審によって、事件の概要が明らかにされました。

 

甘粕は、アナキストが大震災の混乱に紛れて国内の朝鮮人を先導し暴動を起こし政府を転覆すると憂慮し、主要人物の大杉と伊藤を殺害することを決めたことが分かりました。

 

事件について詳しいことが明らかになり、16日、大杉達3人が鶴見に住居があった伊藤の前夫辻潤の見舞いから帰る途中に自宅近くで憲兵隊の甘粕大尉と森慶次郎曹長、鴨志田と本多の両名を加えた4名が、強引に3人を拉致し、麹町憲兵分隊に連行したようです。

 

子供だけでも帰宅させてくれという要望も無視したといいます。

 

予審調書で甘粕は大杉と伊藤を憲兵隊司令部で殺したと認めています。

 

森が雑談のような取り調べで大杉を油断させたところを、入室した甘粕が後ろから首を絞め、森はもがく大杉を押さえ、約15分後で亡くなりました。さらに、午後9時15分、伊藤も同様に雑談のような取り調べで油断させ絞殺しました。

 

当初、甘粕は3人全てを殺害したことを認めましたが、彼の母親が子供を手にかけるなどあり得ないと主張したことにより、“自分は便所に席を立っていて関わっておらず子供は殺していない“と証言を変えて、大杉と伊藤を殺したのは認めましたが、橘宗一については否定しました。

 

予審の内容が覆されたことにより、陸軍省より橘宗一殺しの再調査が命令され、10月5日、憲兵の鴨志田安五郎と本多重雄が共犯であるとして自首し、6日に憲兵伍長の平井利一も見張りとして関わっていたと自首しました。

 

よって被告人は主犯の甘粕正彦と森慶一郎、共犯の鴨志田安五郎、本多重雄、平井利一の55人となりました。

 

鴨志田と本多の証言から、甘粕と森が「上官の命令だからやりそこなうな」と言ったことが分かり周囲は驚きに包まれました。しかし、小泉六一少将と小山介蔵大佐はこれについて否定し、甘粕が再度供述を翻したため、それ以降軍の上官が関与しておらず甘粕らの独断だったとして事件は扱われました。

 

森が鴨志田に殺すよう命令し、命令に逆らえなかったため殺した、甘粕大尉が子供も殺せと鴨志田に命令した、と結論付けられています。

 

甘粕と森は遺体を運び出してばれることを避けるため、敷地内の古井戸に投げ込むことを合意しました。3名を菰に包み古井戸に投げ込み。衣類は焼却し、人足に指示し古井戸を馬糞や煉瓦で埋められたそうです。

 

今では、当時、無政府主義者は政府に警戒されていたため、大杉栄を「やっつけろ」という意見が警察があったが警察ではできないため、憲兵の方にたらいまわしにしたという説や、上官からの指示であったのを甘粕が罪を被ったという説もあります。

 

甘粕事件に関わった人の処分

 

 

殺害を実行し命令した首謀者として甘粕を懲役10年、森曹長に同3年、殺害と遺体を古井戸に投げ込んだ本多重雄、鴨志田安五郎は命令に従い実行したという理由により、見張りとして関与した平井利一伍長は証拠不十分により無罪の判決が下りました。

 

また、小泉六一は甘粕の犯行について賛美したため謹慎を命じられました。

 

ちなみに甘粕のその後は3年半程服役した後仮出獄し、1927年(昭和2年)7月から陸軍の予算でフランス留学をし、その後満州で関東軍の特務工作を行い、満州国建設に貢献したそうです。

 

満洲映画協会理事長にも就任したようです。

 

甘粕事件後のアナキスト(無政府主義者)の動き

大杉殺害の報復に、関東戒厳司令官の福田雅太郎を標的とした狙撃事件や福田に糞尿を投げつけた糞喰らえ事件などを次々と起こしましたが、次々と逮捕されました。

 

大杉が死んだことでアナキズム運動は組織的、社会的なものとなりました。無政府共産党や、農村青年社などの例があります。権藤成卿、橘孝三郎の超国家主義・農本主義運動らにも影響を与えました。

 

現在でも映画や詩、文芸作品の中にその考えを受け継いだものがあります。

 

この事件を題材とした作品

・長唄:西岡真理の噫々甘粕大尉の唄

 

映画 大虐殺:大杉への拷問や、軍法会議等が再現されています。

エロス+虐殺:大杉栄・伊藤野枝の恋愛スキャンダルモ書かれています。

 

・漫画:かわぐちけいじ作、「エテルの系譜 ‐謀殺大尉」 大杉殺害は軍部上層からの指示であったとして描かれています。

 

まとめ

 甘粕事件は1923年に起きた、不法弾圧事件のこと。

 この時代の背景には関東大震災後の混乱があり、直接的な原因は甘粕大尉の独断。

 この事件は被害者の名前から別名「大杉事件」と呼ばれる。

 大杉栄、妻伊藤野枝、甥橘宗一が殺害された。

 この事件の結果、社会主義思想家が組織だってまとまった。

 判決により甘粕正彦には懲役10年、森慶一郎に懲役3年。