【日本の国際連盟脱退とは】簡単にわかりやすく解説!!脱退の理由や年号・影響など

 

小学校のころ、国際連盟と国際連合の二つを教わります。

 

二つの組織の違いなんかも習ったかもしれませんね。

 

国際連盟の時代、日本は世界の大国の一つで常任理事国として参加していたのです。

 

しかも、その地位を自分から捨ててしまうのです。いったい何があったのでしょうか?

 

今回はそんな『日本の国際連盟脱退』についてわかりやすく解説していきます。

 

そもそも国際連盟とは?

(国際連盟の半公式紋章 出典:Wikipedia

 

 

国際連盟とは、第一次世界大戦後にアメリカ大統領ウィルソンの提案によって1920年に成立した国際平和機構です。

 

第一次世界大戦で多くの犠牲者が出たことを受けて、国際的な平和維持機関の必要性があると考えられて作られました。

 

国際連盟の常任理事国

(ジュネーブにある昔の国際連盟本部 出典:Wikipedia

 

 

国際連盟の常任理事国は、イギリス・フランス・日本・イタリア4か国です。

 

これらの国は、第一次世界大戦の戦勝国でもありましたが、アメリカは、上院の反対により加盟はしませんでした。

 

日本はアメリカ以外の他の大国とともに常任理事国となり、国際的に高い地位を得ていたのです。

 

日本が国際連盟から脱退した背景・理由

(リットン調査団による満鉄の爆破地点を調査)

 

 

なぜ、日本はそんなに有利な国際連盟から脱退したのでしょうか?

 

脱退理由は、1931年に日本が中国地方東北部(満州)で建国を宣言した満州国を国際連盟が認めなかったからです。

 

 

国際連盟は満州国をどのように扱ったのでしょうか?詳しく解説していきます。

 

①リットン調査団の派遣(1932年)

日本が満州国建国を宣言した時、中華民国は日本の侵略だと国際連盟に訴えました。

 

事実関係を調査するため、連盟は1932年にイギリスのリットンを団長とする調査団を派遣します(リットン調査団)。

 

リットンは、日本が満州で特別な権利を持つことは認めましたが、満州国の建国は認めませんでした。

 

②国際連盟臨時総会(1933年2月)

リットンの報告に基づいて開かれた国際連盟の臨時総会で満州国を認めないことに対して採決がとられました。

 

賛成42、反対1、棄権1となり国際連盟は満州国を認めませんでした。

 

ちなみに反対派日本、棄権はタイでした。日本は直ちに占領地から撤退せよという勧告案が採決されたのです。

 

③勧告に対する日本の対応

日本政府はこのことに納得しませんでした。

 

日本代表の松岡洋右は連盟の勧告案を拒否し、会議場から退場してしまいます。

 

その翌月には国際連盟に脱退を通告してしまうのです。

 

④日本全権代表 松岡洋右

(1932年 松岡洋右 出典:Wikipedia

 

 

日本の全権代表を務めたのは松岡洋右。アメリカ留学経験がある外交官です。

 

彼が全権に選ばれたのは満州とのかかわりが深く、南満州鉄道株式会社(満鉄)の理事になったことにあります。

 

松岡洋右は、アメリカでの経験から欧米との交渉では常に対等であるべきだと考えていました。

 

そして、1920年代の国際協調路線(幣原外交)に対して批判的でした。

 

連盟脱退後は満鉄の総裁や第二次近衛内閣の外務大臣となり大東亜共栄圏を唱えるなど戦前日本を語るうえで無視できない一人です。

 

⑤脱退の考えに対する国内世論

(国際連盟の脱退当時の新聞紙面 出典:Wikipedia

 

 

当時の新聞は松岡の退場を大きく取り上げました。

 

もっとも有名な見出しが東京朝日新聞の「連盟よさらば!遂に協力の方途なし無し」という見出しです。

 

この見出しには松岡の行動を支持する意図が読み取れます。

 

帰国した松岡洋右は国民の大歓声を受けます。

 

松岡の行動が支持されたのは新聞などのマスコミが連盟離脱を支持していたからです。

 

⑥どうして、新聞は国際連盟離脱を支持したのか?

日露戦争以後、日本はロシアと話し合いながら満州に進出しました。

 

満州に加えて内モンゴルを日本の植民地にしようという動きが強まります。

 

これらの地域を回収したい中華民国との間で対立が深まりました。

 

すると、マスコミは「満州の権益は日露戦争で流された血によって得られたものだ」として戦争をあおり軍事行動を支持したのです。

 

日本の主張を認めようとしない国際社会に対しても強い反発の論調を掲載したのです。

 

ついに国際連盟脱退!脱退による影響

①日本の国際的孤立化

日本が国際連盟を脱退したのは通告から2年後の1935年です。

 

日本は1930年代に次々と国際的な協定や会議から脱退します。

 

その決定打となったのが国際連盟の脱退と翌年のワシントン・ロンドン両海軍条約の失効です。

 

 

1920年代にあった国際協調のムードはなくなり、各国が自国の利害をむき出しにしつつあった時、日本も自国の利益を最優先する姿勢を示し、孤立が避けられなくなりました

 

②国際連盟の衰え

日本が国際連盟を脱退したことで連盟の権威は大きく低下します。

 

日本に続いてドイツ・イタリアが脱退、ソ連はフィンランド侵攻の時に除名されます。

 

連盟は戦争を抑えたり、国際紛争を調停することはできなかったのです。

 

国際連盟脱退後の日本の動き

(満州国皇帝の座についた溥儀)

①満州進出

日本は満州国のトップにかつての清国皇帝だった溥儀をあてます。

 

満州国の政治には日本軍の一部である関東軍が「指導」することで介入していきました。

 

日本国内からおよそ27万人に及ぶ人々が満州や内モンゴルに移民します。

 

②ドイツ・イタリアとの提携

領土拡大

日本もドイツ・イタリアも世界恐慌対策で苦労していました。

 

イギリスやフランスのようにたくさんの植民地もなければ、アメリカのような大きな経済力もなかったからです。

 

そのため、植民地や領土を拡大することで経済的な苦しみから脱出しようとしていました。

 

日本は満州へ、イタリアはエチオピアやアルバニアへ、ドイツはオーストリアやチェコへそれぞれ拡大していったのです。

 

国際連盟やヴェルサイユ・ワシントン体制が邪魔

領土拡大は戦争につながるので国際連盟は阻止しようとします。

 

自国の権利を拡大した国にとってそれは邪魔以外の何物でもありません。

 

こうして、日本・ドイツ・イタリアはそれぞれの理由から国際連盟を脱退します。

 

日独伊三国防共協定から日独伊三国同盟

方向性が似た三国「日本・ドイツ・イタリア」はやがて同盟関係を結びます。

 

これが、日独伊三国同盟です。

 

 

この条約によって第二次世界大戦の枢軸国となっていくのでした。

 

 

まとめ

 日本は第一次世界大戦後に作られた国際連盟を脱退した。

 脱退の理由は満州国を連盟が認めなかったから

 日本国内では妥協が多い国際協調外交に対して強い批判があった。

 連盟脱退後、日本は満州の植民地化を進めた。

 連盟を脱退したドイツ・イタリアと連携を強化し、三国同盟締結に向かった。