【海舶互市新例とは】わかりやすく解説!!目的や内容・その後の影響など

 

江戸時代中期、新井白石は長崎貿易改革の一環として、海舶互市新例と呼ばれる一連の法令を発布し、貿易制限を行いました。

 

一般的には、海外への金銀の流出を抑え、財政を健全化させることが目的だったと言われますが、貿易制限自体はこれ以前から行われており、実態はもう少し複雑です。

 

今回は、『海舶互市新例(かいはくごししんれい)について、簡単にわかりやすく解説していきます。

 

海舶互市新例とは?

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(新井白石 出典:Wikipedia)

 

海舶互市新例とは、1715年に新井白石が長崎貿易改革の一環として発布した法令の総称です。

 

正徳の治の下で行われた政策の一つに数えられます。

 

この法令では、当時日本側の銅不足により生じていた貿易の停滞を解消するため、輸出入を制限することを定めたほか、密貿易を取り締まる目的で、信牌(しんぱい)と呼ばれる通商許可証を発給することを取り決めました。

 

こうした改革は、銅の輸出にもとづく貿易体制の確立を目指すとともに、幕府の直轄都市・長崎の行財政の健全化を図るものでした。

 

海舶互市新例が行われた背景

 

海舶互市新例は正徳の治の下で行われました。

 

海舶互市新例の背景を知るため、まずは正徳の治とは何だったのかを見てみましょう。

 

正徳の治とは、江戸幕府6代将軍徳川家宣(いえのぶ)7代将軍徳川家継(いえつぐ)の下で、間部詮房(まなべあきふさ)新井白石の建議によって行われた政治のことです。

 

この政治が行われたのが、主に正徳年間(17111716年)であったため「正徳の治」と呼ばれています。

 

 

儒学思想にもとづき、武力ではなく、公家にならって儀礼・法制・教化を整備することによって国を治める文治政治であったことが最大の特徴です。

 

 

内政面、外交面ともに、さまざまな改革が行われました。

 

このうちの大部分は新井白石が立案・建議したもので、家宣の代に始まり、家継の代で完成した改革が多くを占めました。

 

①内政面の改革

内政面での主な課題は、儒教思想にもとづいて、5代将軍徳川綱吉が元禄年間(16881704年)に行った政治の弊害を解消し、財政の立て直しを図ることでした。

 

具体的には、まず綱吉が発令した生類憐みの令を撤廃しました。

 

 

また、元禄年間に改悪された金貨・銀貨の質を江戸時代初期の水準まで戻すことを試みました。

 

この金貨・銀貨改良に際しては、幕府に赤字が生じましたが、民衆の信用を取り戻すためには必要だとして改革が断行されました。

 

また、評定所(ひょうじょうしょ)と呼ばれる最高裁判所に相当する機関を設け、公正で迅速な裁判を行うようにしたほか、庶民の裁判では彼らの窮状を理解した上で判決を下すようにするなど、儒教思想を体現した「仁政」(民衆を思いやる政治)を行おうとしました。

 

さらに当時の皇室や宮家では、嫡子(跡継ぎとなる長男)以外の子女は出家することが慣習になっていました。

 

しかし、新井白石はこれを人情に反する前時代的な慣習であると考え、この慣習を廃止することを家宣に提案し、家宣がそれを受け入れて朝廷に奏上しました。

 

これにより、新たな宮家として閑院宮家(かんいんのみやけ)が創設されました。

 

②外交面での改革

外交面では、海舶互市新例を中心とした長崎貿易改革のほか、朝鮮通信使を受け入れる際の経費削減が行われました。

 

 

朝鮮通信使とは、徳川家康の頃に国交を回復させた朝鮮が、江戸幕府の将軍が代替わりするごとに派遣していた外交使節のことですが、従者を含めると1000人規模の使節であったことから、多額の費用がかかることが当時問題になっていました。

 

そこで、新井白石は朝鮮通信使を受け入れる際に幕府が負担する経費を大幅に削減するとともに、朝鮮通信使が通過する地域の大名や沿道の民衆の負担軽減も図りました。

 

海舶互市新例の内容詳細

(江戸に向かうオランダ人たち 出典:Wikipedia)

 

海舶互市新例は、1715年1月に幕府が下した長崎貿易の制限令23カ条と、これを受けて同年5月~8月に追加された細則の総称です。

 

当時の元号を取って、「正徳新例」とも呼ばれます。

 

制限令23カ条は、当時幕府の政策を実質的に決定していた新井白石の立案によるものでした。

 

また、細則は長崎奉行・大岡清相の名で出されました。

 

この法令の中には、「長崎表廻銅定例」「唐船数並船別商売銀高割合定例」「阿蘭陀人商売方定例」など、中国船やオランダ船との交易に関する規定のほかに、長崎町民への貿易配分金や長崎奉行の心得に関する規定も含まれていました。

 

主な内容は次のとおりでした。

 

①中国船との貿易の制限

  • 来航する中国船の船数を年間30艘(そう)に制限すること。
  • 貿易額を銀高6000貫目(最大で9000貫目)とすること。
  • そのうち、銅の輸出を300万斤とすること。
  • 密貿易防止のため、信牌と呼ばれる入港許可書(割符)を発給すること。

 

来航する中国船は、元禄元年(1688年)の時点で年間70艘に制限されており、海舶互市新例発布の直前には50艘が入港していました。そのため、年間30艘への制限は、大幅な削減だったと言えます。

 

30艘に制限された中国船は、さらに出航地域によって船数が定められていました。この取り決めに従うと誓約した者だけに、幕府は信牌を発給しました。信牌を所持していなければ、長崎への入港が許可されませんでした。

 

銀高6000貫目の輸出品の内訳は、丁銀(銀貨)120貫目、銅300万斤のほか、残りは俵物と諸色でした。

 

俵物とは、俵に入れられた海産物のことで、具体的には煎海鼠(いりこ)、干鮑(ほしあわび)、鱶鰭(ふかのひれ)です。諸色とは、俵物以外の昆布やスルメなどの海産物、真鍮製品・蒔絵・伊万里焼などの工芸品です。

 

②オランダ船との貿易の制限

  • 来航するオランダ船の船数を年間2艘に制限すること。
  • 貿易額を銀高3000貫目とすること。
  • そのうち、銅の輸出を150万斤とすること。

 

③輸入品の購入方式の変更

  • 輸入品の購入方式を入札から値組に変更すること。
  • 掛り物を課すこと。

 

値組とは幕府が長崎に設けた貿易機関である長崎会所が、輸入品の購入価格を決定する方式のことです。

 

また、掛り物とは輸入税のことです。

 

④貿易の利益配分の規定

  • 長崎町民に配分金として定額金7万両を支給すること。
  • 貿易商人に、輸出品を買い入れるための前金として1万5000両を貸し付けること。

 

貿易利益の配分は、これまでと変わらず、輸出品である銅を買いそろえておくための銀1500貫目(金25000両に相当)、長崎町民への配分金用の銀1500貫目(金7万両に相当)を引いた残りを運上(年貢以外の雑税)として納めるように取り決められました。

 

海舶互市新例の結果

 

海舶互市新例の狙いは、海外への金銀流出を抑制することにあったわけではなく、むしろ銅の輸出にもとづく貿易制度を確立するとともに、幕府の直轄都市・長崎の行財政を健全化させることにありました。

 

しかし、海舶互市新例で規定された輸出用の銅450万斤(中国輸出用の300万斤+オランダ輸出用の150万斤)を国内で確保することは、現実的ではありませんでした。

 

長崎貿易はその後、銅に代わって俵物を輸出するようになり、徐々に衰退していきました。

 

まとめ

 海舶互市新例とは、1715年に新井白石が長崎貿易改革の一環として発布した法令の総称。

 正徳の治の下で行われた政策の一つである。

 日本側の銅不足により生じていた貿易の停滞を解消するため、中国船・オランダ船との貿易を制限することを定めた。

 また、密貿易を取り締まる目的で、信牌と呼ばれる通商許可証を発給することを取り決めた。

 こうした改革は、銅の輸出にもとづく貿易体制の確立を目指すとともに、幕府の直轄都市・長崎の行財政の健全化を図るものだった。