日本と清は日清戦争で戦うことになります。

 

その理由は李氏朝鮮の甲午農民戦争に対する問題によるものでした。

 

しかし、日本と清はそのような問題が起きないように一回決まりごとを決めていました。

 

その決まりごとは果たしてどんな内容だったのでしょうか?

 

今回はその決まりごとである『天津条約』について、わかりやすく簡単に解説していきます。

 

天津条約とは

(清の全権・李鴻章 出典:Wikipedia

 

 

天津条約は、1885年4月(明治18年)日本と清の間に結ばれました。

 

朝鮮半島で起こった甲午政変による日清間の緊張状態をなくすために結ばれた条約のことです。

 

天津条約はこのほかにも清とフランスの間で起こった清仏戦争における天津条約(1885年)やアロー事件の時に結ばれた天津条約(1858年)があります。

 

特に清仏戦争の天津条約は年が近いのでごっちゃにならないようにしましょう。

 

天津条約が結ばれるまでのあらすじ

(李氏朝鮮の国旗 出典:Wikipedia

 

 

1884年に清の従属国であった李氏朝鮮(りしちょうせん)は、これまでの清に対する従属状態から抜け出して日本と付き合っていこうと考えます。

 

そこで独立党であった金玉均が中心となりクーデターを行い、見事に親日的な新政権を作りました。このクーデターのことを甲申政変といいます。

 

 

しかし、このクーデターはわずか3日で清の圧力によって潰されてしまいます。

 

日本はまずいことにこのクーデターを起こした金玉均に多大な援助をしており、清との関係は悪くなっていきました。

 

そこで日本は李氏朝鮮との間で漢城条約を結びます。この条約の内容は以下の通りです。

漢城条約の内容

①朝鮮国は国書をもって日本国に謝罪を表明すること。

②日本国民の被害者遺族並びに負傷者に対する見舞金、及び暴徒に略奪された商人の貨物の補填として、朝鮮国より11万円を支給すること。

③磯林大尉を殺害した犯人を捜査・逮捕し、正しく処罰すること。

④日本公使館を再建する必要があるので、朝鮮国が代替の土地と建物を交付しそれに充てること。また、修繕・改築費用として、朝鮮国は2万円を支給し、工費に充てること。

⑤公使館護衛兵用の兵営は新しい公使館に相応しい場所に移動し、その建設と修繕は済物浦条約第五款の通り朝鮮政府が施行すること。

 

しかし、漢城条約が結ばれても日本と清の関係は悪いままでした。

 

天津条約前の日本の反応

 

 

日本は元から武力で朝鮮を征服しようとする征韓論という考え方がありました。

 

 

その考え方はどんどん発展していきこの頃には清も朝鮮と一緒に潰そうとなっていきます。

 

さらに清軍が日本人に襲撃したこと、そして居留民が惨殺されたことが、日本で大々的に報道されたことによってその考え方はヒートアップしていきました。

 

あの『学問のすすめ』を書いた福沢諭吉も『北京に進軍すべし』と新聞のコラムに書いたほどでした。

 

またこの頃日本では自由民権運動が真っ最中で、国民もこの事件のことに強い関心を持っていました。

 

その中で自由党は自由党の公式新聞である自由新聞には『我が日本帝国を代表せる公使館を焚き、残酷にも我が同胞なる居留民を虐殺した清を許すことはできず、中国全土を武力で蹂躙すべし』という非常におっかないことを書いていました。

 

 

天津条約の締結

(伊藤博文 出典:Wikipedia

 

 

しかし、政府では『これ以上日清間でいがみ合ってはいけねぇ!』と思う人もいました。

 

その一人が伊藤博文です。伊藤博文は西郷隆盛の弟である西郷従道ら22人を連れていき北京に向かいました。

 

清も交渉のため李鴻章を中心として北京近くの天津で条約を結ぼうとします。

 

こうして1885年に天津条約が結ばれました。

 

天津条約の内容

 

 

天津条約には3つの決まりごとが書かれていました。

天津条約の内容

①日清両国は朝鮮から今すぐに撤退をして4ヶ月以内に撤兵を完了すること。

②日清両国は朝鮮に対し、軍事顧問は派遣しない。朝鮮には日清両国以外の外国から一名または数名の軍人を招致すること。

③将来朝鮮に出兵する場合は相互通知を必要と定める。派兵後は速やかに撤退し、駐留しないこと。

 

この内容を見ると全部の条文が朝鮮に関することです。

 

そして、3つ目に書かれている通り日本はこの条約が結ばれてからは朝鮮に出兵する時は清に一回伝えなければいけないことになりました。

 

こうして日本と清の関係が回復することになると思ったのですが、この条約はやがて甲午農民戦争の時に破られることになっていきます。

 

天津条約のその後

 

 

天津条約が結ばれた直後、李氏朝鮮ではクーデターを起こした金玉均に変わって親清派の人が朝鮮の政治をすることになりました。

 

日本はこの条約の後、再び朝鮮を征服しようと画策します。

 

そして、そのためにはまだ朝鮮に強い影響を出している清を倒さなければならないと思っていました。

 

そして朝鮮では相次ぐ経済的混乱や親清派政権の頼りなさによって朝鮮の経済は破綻するレベルまで落ち込んでしまいました。

 

この経済の混乱によって農民の生活は非常に大きな打撃を受けました。

 

そのため朝鮮の農民は次々と反乱を起こしていきます。

 

そしてその内の1つである『東学』と呼ばれる思想集団を主とした反乱の呼び掛けに他の反乱が応じていって最終的には全国レベルでの大反乱までになっていきました。

 

この大反乱を甲午農民戦争(東学党の乱)と呼びます。

 

 

日本はこのままでは乱が鎮圧されて再び朝鮮が清の強い影響を受けることを恐れて朝鮮に兵を出しました。しかしこの出兵は清に伝えていませんでした。つまり天津条約を破ったということです。

 

この出兵によって乱は収まりましたが日本は再び親日派の人にクーデターを起こさせます。

 

そしてそれにキレた清はついに日本と戦争を挑むことになっていきました。こうして日清戦争に突入していくことになるのです。

 

 

まとめ

・天津条約とは甲午政変の後に日本と清が仲直りするための条約。

・天津条約の内容は朝鮮に関することで、朝鮮に出兵するときは必ず報告することが決められた

・日本は甲午農民戦争が起こった時に天津条約を破って出兵してそれが原因で日清戦争が起こった

・天津条約は他にも清仏戦争の時の天津条約とアロー事件の時の天津条約があるのでごっちゃにならないように注意!

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