平安時代初期、桓武・嵯峨天皇が国政を行っていた時は、天皇自らが主導して政治改革を行っていました。

 

しかし、同時に権力を持ち始めたのが藤原氏であったのです。

 

9世紀も後半にさしかかると、その藤原氏が権力を行使するようになり、摂関政治と呼ばれる政治体制の基盤を形づくりました。

 

そんな中で起こった事件のうちの一つが安和の変です。

 

今回は、この「安和の変」について簡単にわかりやすく解説していきます。

 

安和の変とは?

(藤原氏の代表的な家紋「下がり藤」 出典:Wikipedia

 

 

安和の変とは、平安時代の969年に藤原氏が左大臣「源高明」を失脚させた事件です。

 

源高明に為平親王擁立の陰謀があるとして、源満仲が密告したことで源高明は左遷されました。

 

その後は、藤原氏の全盛期を迎えることになり、摂関政治が定着していきました。

 

安和の変は藤原氏の他氏排斥事件の一つです。他の事件も重要なので、安和の変単体で学習するのではなく、他氏排斥事件を一連の流れとしてとらえると良いでしょう。

 

安和の変が起こった背景や原因

①平城太上天皇の変

桓武天皇は様々な政治改革を行いましたが、十分な成果をあげることはできませんでした。

 

そこで、改革は平城天皇・嵯峨天皇にも引き継がれることになりました。

 

しかし、嵯峨天皇が即位すると兄である平城太上天皇と対立して「二所朝廷」と呼ばれる状態になってしまい、政治的に混乱が生じてしまいました。

 

そこで嵯峨天皇が兵をあげて勝利しましたが、平城太上天皇は出家、中心的であった藤原薬子は自殺、藤原仲成は射殺されるといった結果を招きました。

 

この一連の事件を平城太上天皇の変もしくは薬子の変と言います。

 

 

②蔵人頭の設置

この対立の際にある問題が発生してしまいました。

 

自殺をしてしまった藤原薬子は、内侍司の長官である尚侍という役職についていました。

 

尚侍(ないしのかみ)の役割は天皇が出した命令を天皇の家臣に伝える、また家臣から天皇の文書を取り次ぐことでした。

 

その尚侍であった藤原薬子は平城太上天皇側についてしまったので、嵯峨天皇は自身の命令を家臣に伝える手段が無くなってしまいました。

 

そこで、嵯峨天皇は新たに尚侍を通さなくても命令を伝えられるようにするために、新たに蔵人頭という秘書のような役割の役職を設置しました。

 

そこの役所は蔵人所と呼ばれ、蔵人頭はそこの長官です。

 

その蔵人頭に任命されたのが、藤原冬嗣だったのです。

 

 

(藤原冬嗣 出典:Wikipedia)

 

③藤原北家と天皇

藤原冬嗣は藤原北家の家系に属していて、北家は奈良時代から、藤原四家と呼ばれた家系の一つでした。

 

藤原冬嗣は蔵人頭となり、嵯峨天皇の信頼を得たことで天皇家と姻戚関係を結びました。

 

これにより、藤原北家は次第に権力を握るようになっていくのです。

 

こうして藤原氏が台頭するにあたり、藤原氏以外の大臣などを排斥する事件が多く発生しました。

 

④藤原氏の他氏排斥事件

藤原冬嗣の子の藤原良房は、伴健岑・橘逸勢を退き優位を確立した承和の変を起こしました。

 

さらに、伴善男が応天門に放火した罪を源信に追わせようとした応天門の変が起こり、他氏を次々に排斥していったのです。

 

 

藤原良房はこれを機に正式に摂政に任命されました。

 

その後、地位を継いだ藤原基経は関白の詔が出された後に、宇多天皇が即位の際に出した勅書のなかの「阿衡」の職名に反発して、これを撤回させた阿衡の紛議を起こしました。

 

 

これで正式な関白の地位を確立した上、勅書を起草した橘氏の排斥も成し遂げました。

 

宇多天皇は、摂関をおかずに菅原道真を重用しました(寛平の治)が、醍醐天皇が即位すると藤原時平の陰謀によって菅原道真が大宰府に左遷された、昌泰の変が起こりました。

 

そして、醍醐天皇・村上天皇の摂政・関白を置かない「延喜・天暦の治」へと進んでいったのです。

 

安和の変の内容

(藤原 実頼 出典:Wikipedia)

 

 

村上天皇の死後、子の冷泉天皇が即位しました。これにあたり藤原実頼が関白に就任することになったのです。

 

しかし、藤原実頼と冷泉天皇は外戚関係にはありませんでした。

 

この事実が問題となります。

 

冷泉天皇は病弱かつ子供がいなかったために、即位後すぐ皇太子を決めることになりました。そこで候補になったのは冷泉天皇の弟たちの為平親王・守平親王でした。

 

兄の為平親王が選ばれると思われていましたが、選ばれたのは弟の守平親王だったのです。

 

これはなぜかというと、兄の為平親王の叔父は源高明だったため、藤原実頼が阻止をしたからだとされています。

 

源高明は、為平親王が皇太子になるとなんと天皇の外戚となってしまうのです。

 

さらに、源高明は左大臣にまでのぼりつめた力のある人物でした。

 

関白の藤原実頼でさえ天皇と外戚関係ではなかったため、この関係には納得いかなかったのでしょう。

 

969年、源高明が為平親王の擁立を企てているようだと、源満仲が密告をしました。実際は、密告の内容は定かではなく、詳しくは伝わっていないようです。

 

 

 (源満仲 出典:Wikipedia)

 

 

しかし、藤原氏優勢の状況下でこの密告により源高明は真っ先に疑われました。

 

そして、大宰権師へと左遷されてしまいました。

 

これが安和の変です。密告などはっきりしない部分も多い事件ですが、藤原実頼の策略であった可能性は否定できないでしょう。

 

そのため、藤原氏の他氏排斥事件の一つとされています。

 

安和の変の影響

 

安和の変で源高明が左遷されたことにより、天皇の外戚になることができるのは藤原氏のみになりました。

 

そのため、摂政・関白はほとんど常におかれることとなりました。

 

安和の変は摂関政治の基盤をつくった重要な事件であるといえるでしょう。

 

藤原氏が頂点に登りつめ、他氏排斥は完了しましたが今度は藤原氏内部での対立も起こるようになってしまったのです。

 

有名な対立は藤原兼通・兼家兄弟の争い、藤原道長・伊周の叔父と甥の争いです。

 

10世紀末になると、藤原伊周が左遷されて藤原道長が権力を握ると争いはおさまりました。

 

藤原道長4人の娘を中宮などとして自身は外戚として権勢をふるったのです。

 

また、地位を継いだ藤原頼道は約50年にわたって後一条・後朱雀・後冷泉天皇の摂政・関白を務めました。この藤原頼道は父の藤原道長とともに藤原氏の全盛期を築き上げた人物です。

 

しかし、前九年合戦など戦乱も発生して朝廷は打撃を受けました。

 

その後、後三条天皇が即位すると摂政・関白を置かない体制をとったため摂関政治は衰退していったのです。

 

安和の変の語呂合わせ

 

さいごに様々な語呂合わせが存在するので、今回は一例を紹介します。

 

「高名なアンナと黒く密な仲」

・源高明(タカアキ→コーメイ)

・安和(アンナ)

・969(クロク)

・源満仲(ミツナカ)

意味:名高いアンナちゃんと僕は黒くて濃密な仲だ。

 

ぜひ、覚えてみてくださいね。

 

まとめ

 安和の変は藤原氏の他氏排斥事件の一つである。

 藤原氏が台頭したのは蔵人頭まで遡る。

 安和の変の源満仲の密告の内容は確かではないが、藤原氏の策略といえる。

 安和の変後は、摂政・関白は基本常置された。

 摂関政治の確立の過程で藤原氏内部での対立も発生した。

 摂関政治は、紆余曲折を経て後三条天皇が即位すると衰退した。

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