戦前は天皇が一番偉いとされており、天皇の意向に逆らう者はもれなく国賊や逆賊と呼ばれ、非国民的な扱いを受けていました。

 

しかし、昭和時代となるとこの天皇の権限を利用して軍部の拡大を狙おうとします。

 

今回はそんな天皇の権利についての問題である『統帥権干犯問題(とうすいけんかんぱんもんだい)』について、簡単にわかりやすく解説していきます。

 

統帥権干犯問題とは?

(浜口雄幸 出典:Wikipedia

 

 

統帥権干犯問題とは、1930年(昭和5年)に開かれたロンドン海軍軍縮会議の時に当時首相だった「濱口雄幸」が野党の政友会と軍部に統帥権の侵害として糾弾された問題のことです。

 

この事件によって軍部の暴走が始まり、日本の軍国主義化が進んでいくことになりました。

 

また、統帥権干犯問題の例は他にも「林銑十郎の越境問題」「東條英機の参謀総長就任」などがあります。

 

そもそも統帥権とは何?

(1904年に撮影された日本軍歩兵 出典:Wikipedia)

 

 

統帥権とは簡単に言えば『軍を動かす権利』というものであり、陸軍と海軍の指揮権と監督権を握っている日本の軍部のトップにある権利でした。

 

ちなみに、この統帥権は大日本帝国憲法第11条によって天皇が持つ権利(天皇大権)の一つでもあり、これが今回のこの問題の争点となったのでした。

 

統帥権干犯問題が起こるまでの流れ

①ロンドン海軍軍縮条約の締結

第一次世界大戦の終結以降、ヨーロッパでは第一次世界大戦で深い傷を負ったことを理由に度々軍縮会議が行われていました。

 

そんな中で起こったのが1930年のロンドン海軍軍縮会議だったのです。

 

 

もちろん、日本はこの会議において国際連盟の常任理事国であり、先進国であった日本も国際世論や他国との関係改善も合わせて参加することとなりました。

 

しかし、海軍としたら軍艦が作れなくなったら、もし日本が攻められた時に対応することが出来なくなってしまいます。

 

さらに、この条約ではアメリカやイギリスの建艦が1とすると日本は0.7しか建艦してはいけないとなっていたのです。

 

もちろん、この条約は海軍にとっては由々しき事態。海軍はこのロンドン海軍軍縮条約の締結を拒否することを命令したのでした。

 

②統帥権干犯問題の発生

こうして条約を締結しようとする内閣と海軍の間で亀裂が生じることとなりましたが、海軍はとある秘策がありました。

 

それが統帥権の存在だったのです。

 

先ほど書いた通り、統帥権とは天皇が軍の指揮や監督をする権利であり、その権利は陸軍の参謀総長と海軍の軍令部総長が代わりに受け持つとされていました。

 

そのため、海軍はこの統帥権を引っ張り出して『この条約を締結することは天皇が持っている統帥権を侵害(干犯)している!これは憲法違反だ!』と反対します。

 

さらに、当時の野党であった政友会の犬養毅と鳩山一郎もこの統帥権を引っ張り出して『濱口雄幸首相は統帥権を干犯している!』と議会で発言したのでした。

 

これに対して、濱口雄幸は『たしかに、最終的な決定権があるのは天皇陛下だが、天皇の補佐を任されている首相が条約を結んで何が悪い。ならば外務大臣が外交を行うことも天皇大権の干犯なのか!』と堂々と反論します。

 

結局、濱口雄幸首相はこのロンドン海軍軍縮条約を押し通し、なんとか条約締結まで漕ぎ着け、この問題は終結を迎えたのでした。

 

何故こんな事態となってしまったのか?

①首相の権利の弱さ

この統帥権干犯問題が生まれる一つの理由として、内閣の職務や権限がかなりあやふやという問題がありました。

 

それもそのはず、この統帥権が明記されている大日本帝国憲法は内閣のことは全く書かれておらず、内閣は一応天皇の補佐をする役職とだけ解釈されていました。

 

 

そのため、日本の首相は命令はできるけどそれを決めるという権限は全くなかったのです。

 

その一方で統帥権は、一応天皇が持っている天皇大権の一つと書かれていましたが、実際的には陸軍の統帥は参謀総長が、海軍では海軍大臣と軍令部総長が持つときっちり決められていました。

 

この『軍部と首相の権限の差』がこの統帥権干犯問題を引き起こしたと言っても過言ではありませんでした。

 

②大日本帝国憲法の欠陥

もう一つの原因としてこの大日本帝国憲法の欠陥がありました。

 

この大日本帝国憲法は天皇が主権であり、天皇大権と呼ばれる日本の全ての権利を天皇が行なうとしていました。

 

 

しかし、この憲法には議会のことや内閣のことを全く書いておらず、全てのことを天皇に一任していたのです。

 

そのため、責任問題もかなりあやふやとなってしまい、明治時代や大正時代では元老と呼ばれる政界のドンが政治を行うことで、なんとか押さえつけていました。

 

しかし、昭和時代に入り名だたる元老が亡くなっていくにつれて問題が浮上していき、そしてこの統帥権干犯問題へとつながっていったのでした。

 

統帥権干犯問題のその後の影響

(総理大臣官邸前の濱口 雄幸 出典:Wikipedia)

①濱口雄幸首相の襲撃

ロンドン海軍軍縮条約を無理矢理締結した濱口雄幸。

 

このことによってなんとか問題は終結したかに見えましたが、これが原因で濱口雄幸は軍部や右翼勢力から敵として見られてしまう結果となってしまいます。

 

ロンドン海軍軍縮条約直後に東京駅にて襲撃を受けて10ヶ月後に亡くなってしまいました。

 

こうして、襲撃を受けたことによりこれまで日本で取られていた協調外交は終わることとなるのです。

 

②内閣よりも軍部

統帥権干犯問題や濱口雄幸の襲撃によって、軍部は天皇の後ろ盾を得ていると思われるようになり、内閣は軍部に対して何も言えなくなってどんどん弱体化していきます。

 

また、軍部としてもこの問題によって『軍部は天皇以外止めることができない独立した組織』と思い込むようになり、その後の軍国主義化に拍車がかかることとなりました。

 

そして、その動きは五・一五事件に繋がり日本の政党政治は終わりを迎えることとなったのでした。

 

 

その他の統帥権干犯問題の例

(満州事変 出典:Wikipedia)

①林銑十郎の出兵

ロンドン海軍軍縮条約が締結された3年後である1933年。

 

この年日本では満州事変と呼ばれる大事件が勃発しました。

 

 

この事件は、中国から租借されていた旅順と大連を守る関東軍が独断で起こした軍事行動のことです。

 

当時朝鮮軍の司令官として朝鮮を管轄していた林銑十郎は、なんと天皇や中央政府の許可なしに独断で満州に出兵。

 

 

(林銑十郎 出典:Wikipedia)

 

 

普通に統帥権の干犯を行なってしまい、林銑十郎は『越境将軍』と揶揄されるようになりました。

 

しかし、彼は何故かその後1937年に首相に就任。そこでも彼は何を考えたのかいきなり衆議院を解散して首相を辞任します。

 

『何にも銑十郎』と呼ばれ日本を大混乱に陥れてたのでした。

 

②東條英機の参謀総長就任【東條幕府】

時代は下り1944年。

 

この年、太平洋戦争の戦局がどんどん悪くなっていることを受けて、東條英機首相兼陸軍大臣は作戦の指揮や軍をひとまとめにするために陸相でありながら軍の指揮権を持つ参謀総長に就任します。

 

 

(東條英機 出典:Wikipedia)

 

 

これを受けて当時参謀総長であった杉山元が「就任を決める権利があるのは天皇だけであり、これは統帥権の干犯だ」と猛抗議しました。

 

東條首相はこれをなんとか押し切りましたが、これ以降東條英機は全てのことを自らが行なっているとして『東條幕府』を揶揄されるようになるのでした。

 

まとめ

 統帥権干犯問題とは1930年にロンドン海軍軍縮会議で起きた問題のこと。

 統帥権とは天皇が持っている軍の指揮権のこと。

 この問題によって濱口雄幸首相は東京駅にて襲撃を受け、日本が軍国主義へと突っ走っていくようになった。

 統帥権干犯問題の例は他にも林銑十郎の越境問題や東條英機の参謀総長就任などがある。




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