天智天皇の後継者をめぐる天皇の弟と息子の戦い、それが壬申の乱。

 

この壬申の乱をきっかけに天皇の権威が高まり、天皇中心の政治が始まりました。

 

今回はそんな日本史上の重要なターニングポイントのひとつ『壬申(じんしん)の乱』について簡単にわかりやすく解説していきます。

 

壬申の乱とは?

 

 

壬申の乱とは、天智天皇の死後672年に大友皇子(弘文天皇)と大海人皇子(後の天武天皇)との間で起こった後継者争いです。

 

古代史上最大の武力による内乱といわれています。

 

この壬申の乱をきっかけに天皇に権力が集中。その後、奈良時代へと続く天皇中心の律令国家へのスタートとなりました。

 

壬申の乱における重要な登場人物は3人です。「天智天皇(てんじてんのう)」、「大友皇子(おおとものおうじ)」、「大海人皇子(おおあまのおうじ)」。

 

大友皇子=天智天皇の子どもで、大海人皇子=天智天皇の弟です。

 

※ちなみに天智天皇は、乙巳の変(いっしのへん)、大化の改新で知られる中大兄皇子と同一人物です。

 

壬申の乱の原因や経過

(乙巳の変 出典:Wikipedia

「乙巳の変」後

壬申の乱のおよそ30年前(645年)に起こった中大兄皇子と中臣鎌足らが蘇我入鹿(そがのいるか)を殺害した大事件。

 

これを「乙巳の変」といいます。

 

 

その後、蘇我家は滅び孝徳天皇が即位。中大兄皇子は皇太子として国政改革を推進しました。

 

土地も人民も天皇のものとした公地公民制の政策が有名ですよね。

 

 

661年孝徳天皇が死去した後も、中大兄皇子はしばらく皇太子として国政を行っていましたが、近江大津宮(おうみおおつのみや)へ都を移した翌年、668に即位し天智天皇となりました。

 

天智天皇の後継者は誰にする?問題

当時の常識では、天智天皇の次に即位するのは弟の大海人皇子のはず…でしたが、我が子かわいさに天智天皇は大友皇子を後継者にしようとしました。

 

天智天皇は朝廷内にその意向を示すため、大友皇子を次期天皇であることを意味する太政大臣に就任させました。

 

一般的に考えて、天皇の弟より子どもの方が皇位継承順位は上のように思いますが、なぜ、大友皇子は違ったのか?

 

それは、大友皇子のお母さんが采女(うねめ)とよばれる身分の低い女性だったからです。

 

皇位を継ぐことができるのは、皇族や豪族出身の皇后から生まれた子どもだけでした。

 

そのため、天皇や皇后の食事の世話をする女官である采女から生まれた大友皇子には皇位継承権自体がなかったわけです。

 

反対に、天智天皇と同じ母を持つ大海人皇子には、正当な皇位継承権がありました。

 

天智天皇はこのルールを無視して、大友皇子を後継者にしようと “ゴリ押し”しました。

 

大海人皇子は吉野で僧に

正当な皇位継承権をもっていない大友皇子を天皇にしたい天智天皇にとって、邪魔な人物は誰なのでしょうか?

 

そう!弟の大海人皇子です。

 

先を読み、身の危険を感じた大海人皇子は、兄である天智天皇が強硬手段にでる前に、自分から“政治にも天皇という地位にも興味がない”ことをアピールしました。

 

そして、大津宮から100km以上も離れた奈良の吉野に移り、頭を丸め僧となって目立たぬように暮らしました。

 

大海人皇子が挙兵

状況が変わるきっかけは671天智天皇の死でした。

 

朝廷内では生前の天智天皇が独裁気味だったため、その不満が息子の大友皇子に向けられるようになっていきます。

 

不安定になった朝廷を見逃さなかったのが吉野にいた大海人皇子。天智天皇が死んだ翌年、672に挙兵します。

 

大海人皇子は吉野を出発し、伊賀・伊勢を経て大津宮の東に位置する自らの領国美濃(岐阜)にむかいました。

 

そして、大海人皇子は東国の豪族を中心に35千もの兵を集め大友皇子と戦いうことになります。これが壬申の乱です。

 

壬申の乱の勝敗結果

 

 

 

古代史上最大の内乱かつ武力による後継者争いといわれる壬申の乱に勝利したのは、天智天皇の弟である大海人皇子でした。

 

先制攻撃をしかけたのが最大の勝因といわれています。

 

壬申の乱後、大海人皇子は奈良の飛鳥浄御原宮(あすかのきよみはらのみや)で即位して天武天皇(てんむてんのう)となりました。

 

壬申の乱の影響

(天武天皇 出典:Wikipedia

①天皇に権力が集中

壬申の乱の最大のポイントは、武力と権力によって天皇の権威が強まったこと。

 

力を持っていた有力豪族たちは敗者の大友皇子側についたため、天武天皇を脅かす大きな勢力をもった豪族も一気に一掃できました。ラッキーでした。

 

一方、味方についてくれたのは小中規模の地方豪族たち。天皇をおびやかすほどの勢力はなく、天皇の支配下に置くのは簡単でした。

 

こうして、武力で天皇の座を勝ち取った天武天皇には誰も逆らえませんでした。

 

その結果、天皇に権力が集中。国の中央集権化が加速されました。

 

 

②天皇家中心の皇親政治

さらに、天皇の権力を高めたのが皇親政治(こうしんせいじ)。

 

天武天皇は、朝廷内に大臣を置かず、自分の妻である皇后や息子である皇子を重要な職務や地位に就かせて、天皇家中心の皇親政治を行いました。

 

③「八色の姓」制度の導入

皇親政治だけでは飽き足らず、天武天皇は684に天皇中心の新たな身分制度「八色の姓(やくさのかばね)」を定めました。

 

 

姓とは、大和朝廷の頃から始まった豪族の地位や身分を示す称号でした。「(おみ)」「(むらじ)」などがありました。

 

この姓を改めて、「真人(まひと)」「朝臣(あそみ)」「宿禰(すくね)」「忌寸(いみき)」「道師(みちのし)」「臣」「連」「稲置(いなぎ)」の8種類の姓にしました。

 

「真人」は天皇家に近い親戚、「朝臣」や「宿禰」は有力な豪族などに与え、天皇をトップとする皇族の権威を示しました。そして、天武天皇から、大王(おおきみ)を天皇と呼ぶようになりました。

 

686年天武天皇の死後、即位したのは持統天皇。天武天皇の奥さんであり、天智天皇の娘さんです。

 

その次の天皇は、持統天皇の孫にあたる文武(もんむ)天皇。この文武天皇の時代、701に唐の法律にならって大宝律令が制定されました。

 

 

全国を細かく支配するしくみができ、律令国家が始まります。

 

まとめ

 壬申の乱とは、672年、天智天皇の息子・大友皇子と天智天皇の弟・大海人皇子との間で起こった皇位継承争いのことを言う。

 この壬申の乱は、古代史上最大の武力による内乱といわれている。

 大友皇子は、母が身分の低い女性だったため皇位継承権はなかった。

 大海人皇子はのちに天武天皇となった。

 壬申の乱後、天皇の権威が高まり天皇に権力が集中した。

 天武天皇の死後、皇后の持統天皇が即位した。

 

▼壬申の乱についてもっと詳しく知りたい人はこちらの書籍がおすすめ!

【みんなの感想】

“壬申の乱”というと、古代最古にして最大の軍事クーデターという印象がある。
しかし、クーデターの実態や経緯については謎に包まれている。

本書では、一つ一つの“事実”を積み重ねて“真実”を突き詰めようとしている。
その“真実”は、壬申の乱、ひいては古代日本を考察する上で非常に役立つと思う。

壬申の乱は、天智天皇没後に正統後継者たる大友王子に対して軍事クーデターを起こして皇位を奪取した古代最大の大乱であるが、謎が非常に多い。本書はこのクーデターにおける様々な人間模様や謎を追う。大海人王子は天武天皇として即位後「陰陽寮」という官僚組織を作り、陰陽道を独占した。天武の道教、陰陽道に対する。これまで大王(おおきみ)といわれた最高権力者の称号が天皇となったのは、道教の神たる天皇「てんこう」に由来するらしい。また記紀に天照大神が子ではなく孫を降臨させるくだりは、天武の皇后だった持統天皇が子の草壁皇子ではなく孫の軽皇子の即位の正当化のための作為だともいわれる。いわゆる「日本イデオロギー」は大化の改新から壬申の乱にかけて作り上げられたものであろう。

(引用:amazonレビュー

関連キーワード