【天保の改革とは】簡単にわかりやすく解説!!内容や目的・影響・その後など【まとめ】

 

やっぱり何事にもほどほどにやるのが肝心。あまり厳しくしすぎると返ってとんでもない結果や失敗が待っています。

 

今回解説する天保の改革も厳しすぎて失敗してしまいました。

 

今回は三大改革の中でも一番最後に行なわれた『天保の改革』について簡単にわかりやすく解説していきます。

 

天保の改革とは?

(水野忠邦 出典:Wikipedia

 

 

天保の改革とは、江戸時代の天保1830年~1843年老中水野忠邦によって行われた江戸幕府の大改革です。

 

この天保の改革の改革は農業を重視した改革でしたが、失敗してしまいました。

 

天保の改革を行なわれた背景や目的

家斉の大御所政治

江戸時代中期以降、徳川幕府では徳川家斉という人が第11代将軍にいました。

 

この徳川家斉という人はとにかくド派手。とにかく大奥にいつも行くなどド派手な生活を送っていました。(ちなみに子供は全員合わせると55人)

 

(徳川家斉像 出典:Wikipedia

 

 

さらに将軍だった時期は半世紀である50年。

 

この頃になると寛政の改革で収まっていた江戸の活気は明るくなり、葛飾北斎などの浮世絵師が活躍する化政文化という時代に突入していきました。

 

しかし、55人の子供を養ったり、ド派手な生活を送ったことにより、幕府の財政は破綻寸前となります。

 

 

この頃になると天保の大飢饉や米の値段が急上昇して起こった百姓一揆打ちこわしが起こり、さらに生田万の乱、大塩平八郎の乱などの一揆が続出して国内事情がどんどん混乱していきました。

 

 

海外では捕鯨の関係などで欧米からの貿易依頼が徐々に増えはじめ、1824年に大津浜事件、1828年にシーボルト事件、1837年にアメリカ船が日本近海に現れて幕府によって打ち払われたモリソン号事件という緊急事態が続きます。

 

 

このような状況で、外国と対応するにはとりあえずまずは政治を安定させながら財政を改善する必要があったのです。

 

そして、1837年徳川家斉は将軍を引退して12代徳川家慶と変わり、さらに老中のトップに浜松藩主であった水野忠邦を老中のトップにして改革を始めました。

 

(徳川 家慶 出典:Wikipedia

 

天保の改革の内容や概要

①人事改革の場合

家斉時代の幕府では賄賂が普通に行われており、風紀は乱れ始めていました。

 

そこで水野忠邦は賄賂をした役人や改革に反対している幕府の役人をどんどん追放していきます。

 

代わりに遠山景元(あの遠山の金さんの人)、鳥居耀蔵、江川英龍が幕府の役人に採用されます。

 

②経済改革の場合

天保の改革は農業を重視している改革でした。

 

この頃の幕府の収入源はおもに幕府領(天領)の農村からの年貢です。

 

しかし、貨幣の統一や流通、副業で育てた商品を売るなどで、全国各地の農村から江戸や大坂などのへ出ていく人が増えていきます。

 

江戸や大坂などに農民たちが行くことによってどんどん江戸の人口が増えていき、逆に農村の人口が減っていきます。そのせいで幕府がとる年貢の量が減ってしまい、幕府の赤字に繋がっていきます。

 

その対策として水野忠邦は『人返し令』を発令します。

 

 

人返し令とは、簡単に言えば江戸に住んでいた農村出身者を強制的に農村に帰ってもらう法律のことです。

 

この人返し令は同じく江戸三大改革の1つである寛政の改革の時にも行われていましたが、寛政の改革の時は農村に帰るのは自由となっていました。

 

また、急上昇している物価を安定させるため、各商品を売っている商人の協会である『株仲間』を解散させて値段設定を自由にして物価を下げようとしました。

 

 

③軍事改革の場合

当時幕府は異国船打払令というとにかく外国船は打ち払う方針を取っていました。

 

 

モリソン号事件もこの方針にのっとったものです。

 

しかし、1842年にアヘン戦争でかつて眠れる獅子と恐れられてきた清がイギリスに完敗したことを受けて、幕府は従来の異国船打払令をやめ新たに『薪水給与令』を出し、日本にやってきた外国船には薪などの燃料や水、食料を与えることにしました。

 

 

④風紀の取り締まり

天保の改革では家斉の時代の化政文化を代表とするド派手な生活を庶民にやめさせようと倹約令を出します。

 

 

この結果、贅沢は禁止され、絹などの高価な着物はきれなくなり落語の寄席は閉鎖。

 

さらに歌舞伎役者も江戸から追放して化政文化は終わりを迎えました。

 

天保の改革の終わり

 

 

天保の改革はこのような様々な改革を行なってきましたが、これらはは全て失敗してしまいます。

 

まず風紀を取り締まったことによって水野忠邦は庶民から大批判を受けます。

 

風紀の取り締まりぐらいだったら可愛いものですが、株仲間の解散によって江戸に商品が届かなくなり、逆に商品の値段が上がっていく最悪の事態となりました。

 

さらにさらに人返し令も上手くいかず、余計に経済が混乱してしまいました。

 

極め付けは、天保の改革を終わらせる原因となったのが上知令という制度でした。

 

 

上知令とは江戸や大坂近くの大名や旗本の領地を取り上げて代わりの土地に移動させることです。

 

しかし、いきなり幕府が江戸や大坂の領地が欲しいから大名や旗本の領地を取り上げるのはさまざまな人から猛反発を受けてしまいます。

 

旗本といったら幕府の家来。家来から見放されたトップなんてもはや居場所なんてありませんでした。

 

その結果、水野忠邦は徳川家慶の信頼をなくしてしまい水野忠邦は老中を解任されて失脚します。

 

こうして天保の改革は終わりを迎えました。

 

天保の改革のその後の影響

(黒船来航の様子)

 

 

天保の改革の失敗は幕府の財政を余計に混乱させてしまいます。

 

幕府だけの問題なら良かったのですが、その頃各藩では財政改革に成功して特に薩摩藩や長州藩は幕府を超える裕福な藩に成長していました。

 

さらに、水野忠邦が失脚してから10年も経たずに日本最大ともいえる大事件。ペリー来航によって幕府は苦境に立たされます。

 

そして、日本はさまざまな混乱を迎えながら新たな時代へと向かっていくことになるのです。

 

 

まとめ

 天保の改革とは水野忠邦が行った幕府の政治改革のこと。

 天保の改革は人返し令や株仲間の解散など農業を重視した政策だったが、上知令によって失敗に終わった。

 天保の改革が失敗に終わったその頃各藩では財政改革に成功しており、さらに数年後にペリーが来航して幕府は一気に苦境に立たされる遠因となった。

 

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【読者の感想】

遠山金四郎という江戸後期の町奉行が、水野忠邦が推進しようとした天保の改革にどのようなスタンスで臨んだかを中心に書かれています。事例として、寄席の削減・撤廃、芝居小屋(歌舞伎演芸会場)の移転、株仲間の解散、床見世という零細の小売店鋪・屋台の撤去、農村からの流入民の帰還・帰農などの政策に対し、これらは町人下層階級の生活実態にそぐわず、強行しても零細生活者の生活をおびやかすことを主張し、政策を骨抜きにしようとしたことが、当時の文書記録等から確認されているということです(水野は早々に失脚したので、前述の施策は中止されたり実効性を持つことなく、元の状態に復帰したものが多いようです)。

各政策事例ごとに章立てがなされ、そこでどのような応酬があったのかが書かれていくパターンが反復されるので、当方は後半やや飽きてしまったのですが、それでも当時の幕府官僚の思考様式や江戸の生活実態が浮き彫りになっていくところが本書を読んでの収穫です。

町奉行というと、時代劇の影響もあって「裁判官」のイメージが強いのですが、実際は幕府の政策実施のための出先機関のトップであり、下情、つまり庶民の生活や経済活動全般にも通じている必要があったことが興味深いです。遠山以外にも名奉行と言われた町奉行が何人かいたようですが、彼らも町人の生活実態をよく把握しており、例えば物価の上昇が、貨幣の改鋳(改悪)や回船事業者の独占の許容など、過去の幕府の政策上の失敗・矛盾などに起因していることを指摘するなど、柔軟で合理的な思考回路を持っていたようです。

また、下層階級の経済力にフィットした娯楽として寄席が多数存在していたことや(当時はテレビやネットもなかったですからね)、農村を離れて江戸に出てきた農民が都市生活に馴染んで帰農したがらない状況など、当時既に百万都市であった江戸に、いかに商品経済・資本主義とそれに基づくライフスタイルが根付いていたかもよくわかり、現在の我々の生活実感と照らしながら理解することができます。このあたりは日本史を理解していく上で、それに先行する時代、例えば平安期や鎌倉期との大きな差だと感じました。

(引用:amazonレビュー