【モリソン号事件とは】わかりやすく解説!!きっかけや内容・影響・その後など

 

江戸後期に起こった『モリソン号事件』

 

幕末の日本の混乱と鎖国政策の終わりに大きな影響を与えました。

 

今回はそんなモリソン号事件が起こるまでの流れとその後の影響についてわかりやすく解説していきます。

 

モリソン号事件とは 

(アメリカのモリソン号 出典:Wikipedia

 

 

モリソン号事件とは、1837年(天保8年)アメリカのモリソン号と日本との間に起こった砲撃事件のことです。

 

モリソン号は漂流した日本人を乗せており、その送還と通商を目的として来航しましたが、当時異国船打払令を出していた日本側は砲撃し、退去させました。

 

モリソン号事件が起こるまでの日本

①日本の鎖国政策と欧米諸国の来日

江戸時代、幕府は長く鎖国政策をとっていました。

 

鎖国政策とは1639年~1854年に行われていた対外政策でキリスト教の布教防止、貿易の管理を目的としており、当時は朝鮮・オランダ・中国とのみ貿易を行っていました。

 

 

しかし、江戸時代後期になると欧米諸国が通商を求めて日本近海に現れるようになります。

 

ロシアからは1792年にアダム・ラクスマンが、1804年にニコライ・レザノフが来航し貿易を求めて交渉を行いましたが、いずれも幕府は拒否しています。

 

②文化の薪水給与令の発令

 ロシアやイギリスの軍艦が通商を求めて日本近海に現れることが増え、またアメリカの捕鯨船などが寄港地を求めて日本に立ち寄ることもあり、幕府は対応に苦慮していました。

 

そこで幕府は交渉を拒否した外国船に穏やかに退去してもらうことを目的として、1806年に文化の薪水給与令を発令し、立ち寄った外国船に対して燃料や食料の補給を認めることとしました。

 

③文化露寇

文化の薪水給与令にて諸外国との関係悪化を防ごうと考えた幕府でしたが、同じ年、1806年に文化露寇が起こります。

 

これは日本との交渉が失敗に終わったロシアが武力による開国を求めようと利尻島・択捉島を襲撃した事件のことです。

 

日本人がロシアに連行され、防衛に乗り出した幕府軍も大きな被害を出します。

 

この事件で国防の強化の必要性を感じた江戸幕府は文化の薪水給与令を廃止し、1807年にロシア船打払令を発令します。

 

④イギリス船来航と異国船打払令

 ロシアだけでなく、イギリスも繰り返し日本近海に現れました。

 

1808年にはイギリス軍艦であるフェートン号が長崎港に侵入し、オランダ商館員を人質に取り食料、燃料を強要するフェートン号事件が起こります。

 

 

1824年には水戸藩の大津浜事件、薩摩藩の宝島事件とイギリス船が来航したことによる事件が次々と起こります。

 

さらに同じ1824年に水戸藩の漁師が数年前から欧米の捕鯨船の乗組員と物々交換を行っていたことが発覚します。

 

これらの事件をきっかけに江戸幕府は1825年に異国船打払令を発令します。

 

 

異国船打払令とは外国船の来航を武力によって防止し、また外国人と日本の民衆との接触を阻止することを目的とした政策で、当時貿易をしていたオランダ・清(中国)以外の日本沿岸に来航した外国船を見つけ次第砲撃することを命じたものです。

 

このように日本が諸外国に対して強硬姿勢をとっていた時期にモリソン号事件は起こるのです。

 

モリソン号事件の内容

①モリソン号の来航

 1837年、アメリカのモリソン号は日本の浦賀に来航しました。

 

当時日本の船乗りが嵐にあい漂流して外国船に保護されることがたびたび起こっていましたが、モリソン号にも漂流した日本人7名が乗っていました。

 

モリソン号は彼らの送還と同時に日本に通商とキリスト教布教を交渉することを目的としており、武装もしていませんでした。

 

しかし来航したモリソン号はイギリスの軍艦と勘違いされ、浦賀奉行所は異国船打払令に従って砲撃します。

 

退去させられたモリソン号は薩摩藩に向かい再び交渉を行いますが、交渉は拒否され、威嚇射撃を受けます。

 

これにより日本との交渉を断念したモリソン号は帰港しました。

 

②幕府のその後の対応と露呈した問題点

 幕府はモリソン号を退去させますが、この砲撃で日本の防備の脆弱性があらわになりました。

 

浦賀で撃った大砲はほとんどモリソン号には届かず、突如現れた外国船に奉行所はうろたえるばかりでした。

 

薩摩藩ではその後、沿岸防備にかなりの力を注ぐようになりました。

 

一年後、オランダ商館を通して、モリソン号が漂流した日本人の送還も目的としていたことが判明します。

 

この報告により幕府の中で審議が行われ、漂流民はオランダ船による送還を認めるという決議がなされました。

 

モリソン号事件の影響

①江戸幕府への批判

モリソン号事件は江戸幕府への批判につながっていきます。

 

モリソン号事件後に幕府で行われた審議の中で「漂流した日本人の送還は一切認めず、外国船は徹底的に打ち払うべき」というもっとも強硬で却下された意見がありましたが、なぜかその意見のみが日本国内に広がります。

 

これを受けて蘭学者、儒学者などの集まりである尚歯会は異国船打払令や幕府の対応を批判します。

 

その批判の中で三田藩家老の渡辺崋山は「慎機論」、陸奥水沢出身の医師高野長英が「戊戌夢物語」を記しました。

 

②蛮社の獄 

尚歯会が幕府の批判を行っていたころ、江戸幕府はモリソン号事件を契機に江戸湾防備の検討を始めます。

 

その中で生まれた軋轢もあり、もともと蘭学を排除しようとしていた鳥居耀蔵は尚歯会の弾圧を行いました。1839年に起こったこの弾圧事件のことを蛮社の獄と言います。

 

この蛮社の獄により渡辺崋山、高野長英は処罰されます。

 

 

③江戸幕府の方針転換

モリソン号事件により幕府は防備の弱さを露呈し、国内からの批判を受けることとなりましたが、さらに幕府を動揺させることが起こります。

 

それがイギリスと清との間で1840年~1842年に起こったアヘン戦争によるイギリスの勝利です。

 

 

日本はそれまで清を高い軍事力を持つ大国と考えていたため、その敗北に衝撃を受けます。

 

異国船打払令により日本沿岸に来航した外国船は見つけ次第砲撃するという強硬姿勢をとっていた日本でしたが、それが原因となり戦争が起こる危険性や報復を受ける恐れがありました。

 

またモリソン号事件のように調査を行わずに砲撃を行うことは、国外からの批判が高まることも考えられました。

 

そこで幕府は諸外国との戦争を避けることを目的として1842年に、まず来航した外国船を調査し、必要があれば食料・燃料の補給を認める天保の薪水給与令を出します。

 

 

こうしてモリソン号事件がきっかけとなり、江戸幕府は対外政策の方針転換を行い、これが後の開国へとつながっていくのです。

 

まとめ

 浮世草子とは江戸時代前期に誕生した小説で、仮名草子などとは違い町人を中心に広がった。

 浮世草子は「儚い世の中を楽しもう」という考えの中で生まれ、その時代の町人を主役としたものが多い。

 浮世草子の代表作として井原西鶴の「好色一代男」がある。