今でもよく使う言葉大御所。実は江戸時代には50年もの間大御所の時代が存在していました。

 

今回はそんな『大御所時代』についてわかりやすく解説していきます。

 

大御所時代とは

 

 

大御所時代とは、江戸幕府第11代将軍である徳川家斉の時代を指す言葉です。

 

大御所とは元々は隠居した皇族が住んでいる屋敷のことを指す言葉でしたが、時代が下ると権力を持っている人の父親のことを指すようになりました。

 

今でも大御所俳優という形でよく使われていますね。

 

徳川家斉とはどんな人物?

(徳川家斉 出典:Wikipedia

①徳川家斉の将軍就任

徳川家斉は1773年に御三卿の一つである一橋家に生まれます。

 

1786年に第10代将軍である徳川家治が亡なります。しかし家治の息子は病死しており、直系で将軍を継げる人がいませんでした。

 

そこで徳川将軍家のルールとして一橋家の生まれであった家斉が第11代将軍に就任しました。この時わずか15歳。ここから50年にも渡る時代が始まっていきます。

 

②徳川家斉の人物像

徳川家斉の性格を一言で表すならばド派手。この一言に尽きるでしょう。

 

将軍に就任してまもない頃はまだ年が若かったため、松平定信が寛政の改革を行なっており将軍も質素に暮らしていましたが、定信が失脚すると溜まった寛政の改革の頃の不満が一気に爆発してしまい、一転贅沢の限りを尽くした生活に様変わりてしまいました。

 

一説によると家斉は生姜と白牛酪(チーズみたいなもの)が大好物だったみたいで、そのお陰もあってか病気にかかったことがほとんどないという丈夫な体でした。それどころか生涯で53人もの子を産んでしまうというとてつもない精力があったそうです。

 

(ちなみに、その子供の一人である溶姫という人物が加賀藩当主である前田家に嫁いだ時に作られた門が今の東京大学の赤門になっています。)

 

大御所時代初期の事件・出来事

(寛政の改革を行った松平定信 出典:Wikipedia

①寛政の改革

家斉の前の将軍であった家治の頃には田沼意次という人が政治の実権を握っており、重商主義という立場を取っていました。しかし、田沼意次の時代の時に賄賂が横行してしまい政治が大きく乱れました。

 

さらに天明の大飢饉などの自然災害が頻発し、家斉の代になると田沼意次は失脚してしまいます。

 

その後を継いだのが白河藩当主であった松平定信でした。

 

定信は重商主義から一転、重農主義を取り始め、人返し令や、人足寄場という今のハローワークみたいな施設をつくり、さらに風紀を取り締まることで政治を安定させようと考えていましたが、そのやり方があまりにも過剰すぎたため贅沢な生活を送りたい家斉の不満は溜まるばかりでした。

 

 

②尊号一件

家斉の不満が溜まっていた時に起こったのが尊号一件という事件でした。

 

この事件は簡単に言うと『光格天皇が親に尊号を贈ろうとした時に定信が反対し、尊号を贈ることができなかった』という事件です。

 

一見些細な事件かと見えますが、実はこの事件によって定信が失脚してしまいます。

 

実は将軍家斉も親に尊号を贈りたかったのです。しかし、定信が天皇の尊号の事で首を突っ込んだことによって家斉も親に尊号を贈ることができなくなってしまいました。

 

結果的に怒った家斉は定信を罷免(クビにすること)。寛政の改革は終わりを迎えました。

 

③フェートン号事件

1808年長崎にイギリスの軍艦であるフェートン号がオランダ船と偽って来航してきました。

 

この事件はフェートン号船長が「食料を供給しなかったら焼き払う!」と脅し、一見大事態になりましたが、なんとか長崎奉行がフェートン号に食料を供給して事なきを得ました。

 

しかし、幕府はこの事件から外国船を警戒し始め、のちに異国船打払令を発令することになるのです。

 

 

大御所時代中期の出来事・事件

(化政文化に描かれた富嶽三十六景 出典:Wikipedia)

①化政文化

寛政の改革が終わりを迎えると、松平定信によって抑圧されていた本や歌舞伎などの娯楽などが復活し、江戸中心の新たな文化が生まれました。この文化を当時の元号をとって化政文化といいます。

 

化政文化の時代には十返舎一九の『東海道中膝栗毛』や葛飾北斎の『富嶽三十六景』歌川広重の『東海道五十三次』などの後世に伝わる文学・美術作品が続々と生まれます。

 

また、柄井川柳によって『川柳』が生まれ、さらに杉田玄白や前野良沢が『解体新書』を翻訳し、日本における蘭学が発達していきました。

 

 

②異国船打払令

1825年、幕府はフェートン号事件などの度重なる外国船に対応するためにこれまでの天明の薪水給与令をやめ、異国船打払令というとりあえず日本近海に外国船が来たら大砲をぶっ放すという強硬手段に出るようになります。

 

しかし、これがのちにモリソン号事件の幕府の対応につながっていき、蘭学者から批判を受けることになります。

 

 

大御所時代後期の事件や出来事

(大塩平八郎 出典:Wikipedia)

①大塩平八郎の乱

大御所時代の中期になっていくと1836年に天保の大飢饉が起こるなどの自然災害などが頻発し始め各地の村では打ちこわしや百姓一揆が多発し始めます。その中でも特に大規模なものが大坂で起こった大塩平八郎の乱でした。

 

大塩平八郎の乱の首謀者である大塩平八郎は与力という幕府の役職していましたが、飢饉が起こって米がないのにもかかわらず米を買い占めている商人やそれを認めている奉行などを許せず、300人の仲間を連れて武装蜂起を行います。

 

しかし、大塩平八郎の乱は半日で壊滅し、大塩平八郎は自害します。

 

この乱によって大坂の町の5分の1が焼け、さらに幕府の役人が反乱を起こしたことによって幕府の政治が揺らぎ始めるという結果となりました。

 

 

②家斉の隠居

1837年、将軍就任から50年経ったのを機に家斉は将軍職を息子である家慶に譲り隠居して名実ともに大御所となりました。

 

ちなみに家斉将軍の任期の長さは鎌倉時代の将軍から最後の将軍である慶喜の時代の中ではダントツで一番でした。

 

大御所時代の終わり

家斉の隠居から4年後の1841年、家斉は69歳で亡くなりました。

 

大御所時代は家斉の将軍就任から亡くなるまでの時代を指しますが、実際に家斉が大御所となっていたのはわずか4年でした。

 

家斉の死後、幕府では1834年から老中であった水野忠邦が実権を握りはじめ天保の改革へと移り変わっていくのです。

 

まとめ

・大御所時代とは第11代将軍徳川家斉の頃の時代のこと。

・この時代には化政文化という新しい文化が生まれたのに対して、大塩平八郎の乱などの幕府を揺るがす反乱も起きた。

・家斉の死後、水野忠邦が実権を握りはじめ天保の改革へ移り変わった。

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