人返し令(人返し法とも言う)は江戸後期の三大改革、天保の改革で出された財源確保のための法令の一つです。
三大改革はやればやるほど悪くなると言われるほど決定的な効果を出すことができませんでしたが、江戸幕府は幕政を立て直そうといくつもの法令を出しました。
今回はその中の一つ、『人返し令』について内容や出された背景など簡単にわかりやすく解説していきます。
目次
人返し令とは
人返し令(人返し法とも言う)は江戸後期の1843(天保14)年、老中水野忠邦が天保の改革で出した法令です。
当時江戸に流入していた多くの農民をもとの農村へ戻して、幕府の大事な財源である年貢を確保しようと、江戸にいる農民の帰農を命じ、また江戸に農民が移住することを禁じました。
人返し令が出された背景・目的
(水野忠邦 出典:Wikipedia)
①財源の確保
水野忠邦が天保の改革を始める10年ほど前、天保の飢饉が起きました。
長雨や洪水、冷害などの影響で農村は荒廃し、全国で3年もの間凶作が続きました。特に東北地方では多くの農民が餓死してしまいました。
このような状況で都市の米価は暴騰。すると困窮する農民たちのために1837年には大塩平八郎が大阪で反乱を起こし、さらに各地で百姓一揆や打ちこわしが続発するようになります。
農村部に住む農民にとって一番の収入源はなんといってもお米。米ができなければ生活ができません。
苦境を脱するために江戸へ出稼ぎに行こうとする人が多く現れました。また米を作ることをやめ、農地を投げ出して江戸へ逃げてしまう人も少なくありませんでした。
米ができなくて困るのは農民だけではありません。幕府も困ります。なぜなら幕府の大きな財源は年貢だからです。
飢饉によって米ができない、農村を捨ててしまう農民が続出する、さらに米の収穫量が減る、ますます年貢が集まらないという形で、江戸幕府にとって財源の減少は深刻な問題となっていました。
②旧里帰農令
実は人返し令が出される前、松平定信による寛政の改革でも農民を農村へ帰そうという法令が出されていました。それが1790年に出された旧里帰農令です。
1782年から5年もの間、全国的に天明の飢饉が起きた際に農村を捨てて江戸へ流入した多くの人に資金を与え、もとの農村へ帰ることを奨励するというものでした。
しかし旧里帰農令はあくまで奨励するといった程度なので、ほとんど効果はありませんでした。
③なぜ江戸を目指したのか?
江戸後期になると、貨幣経済が農民にも広まりつつありました。
米を用いた経済活動は天候などの影響を受けてしまいますが、貨幣を用いた経済活動ではその影響を抑えることができます。
江戸は今も昔も経済の中心地です。あまりに凶作が続いた中で農民が田畑を捨てて江戸へ流れたのは、貨幣を用いた経済活動の方が生活できるという考えがあったのです。
④江戸に出てきた人の生活
江戸に出た人の中には江戸できちんと職に就いて生活している人もいれば、一方で無宿人や博徒として生活している人もいました。
無宿人や博徒が増えると都市部の犯罪も増加します。江戸に暮らす人にとって、こういった無宿人や博徒の増加は治安上の問題となり、幕府にとってもこの対策は大きな課題となっていました。
人返し令の内容
①農民大流出を食い止めろ!
天保の飢饉による凶作の影響で多くの農民が農村から都市へと出てしまったため、田畑は荒れて米の生産はますます減少しました。
そこで年貢を増やすため、水野忠邦は天保の改革の中で農民を農村へ戻し、また流出させない法令として「人返し令」を出しました。
②江戸へ出たい農民と幕府の攻防
人返し令ではまず、農民が農村を捨てて江戸へ移住することを禁じました。これによってこれから江戸に出ようとしていた農民は江戸に出ることができなくなりました。
すると農民は知恵を絞って、あの手この手で江戸に行こうとします。
「ちょっと奉公出稼ぎに行くだけだ」という人に対しては、村役人を通じて領主や代官の許可が必要となりました。誰がいつまで奉公出稼ぎするのかを把握させたのです。そして期限がきたら必ず帰郷させました。
これによってちょっと出稼ぎに行くだけというふりをして江戸に居座ろうという魂胆では江戸に行くことができなくなりました。
また僧侶か神主になったと言って江戸に出ようという人や諸国を巡礼するだけだなどという人もいます。そういった人は厳しく取り締まりました。
一方すでに江戸に出てきている人もたくさんいます。長年江戸に住み、仕事をしており、一家を構えている人は例外とされましたが、それ以外の人は帰郷を命じられました。
取締まる際に強化されたのは人口調査である「人別改め」です。その人がどこに住んでいる何という人かを明らかにする、戸籍調査のようなものです。
こうして幕府は農民が自分の住んでいた農村を捨てて江戸へと流れていくことを厳しく制限しました。
人返し令の結果
旧里帰農令と比べて人返し令は強制力をもって実行されたので、当初は効果がありました。
しかし、天保の改革は人返し令が出されたのと同じ1843年に頓挫してしまいます。つまり出されて効果が出る間もないほどすぐに終わってしまうのです。
さらにそもそも農民が江戸へ流れたのは、農村での収入が得られなかったからなのです。それを無理矢理農村に帰したとしてもすぐに米を作ることができるわけでもなく、つまり年貢を増やすことができるわけではありませんでした。
結局人返し令は大きな効果を得ることができませんでした。
人返し令の語呂合わせ
人返し令の年号を直接問う問題はあまりありませんが、人返し令が出された天保の改革の年号は必須です。
年代の並べ替えや年表問題で問われることが非常に多いので、必ず覚えましょう。
天保の改革は1841~1843年の間に行われた改革です。人返し令はその最後の年1843年に出されました。
「いやしい(=1841)店舗(=天保)が水の(=水野)泡」
と覚えましょう。
水野忠邦が厳しく臨んだ天保の改革でしたが、めざましい結果も出せずわずか2年で文字通り「水の泡」となってしまいました。2年しか続かなかったということも覚えておきましょう。
まとめ
・人返し令は1843年老中水野忠邦が天保の改革の中で出した法令のこと。
・凶作等で田畑を捨て、江戸へ流れた農民を農村へ強制的に戻すことを定めた。
・減少していた年貢収入を増やし、幕府の財源を確保することが目的。
・効果を得られぬまま水野忠邦の失脚により頓挫。
・人返し令が出された天保の改革の語呂合わせは「いやしい(=1841)店舗(=天保)が水の(=水野)泡」。