今の時代でも何かと気に入らなくて指示を聞かない困った人がいます。

 

そんな事しても意味ないのにと思いますが、やっぱり従いたくないという感情が生まれてしまうのでしょうか?

 

さて、今回紹介する永享の乱はそんな指示を聞かなくて起きてしまった乱でした。

 

今回はこの『永享の乱(えいきょうのらん)』についてわかりやすく解説していきます。

 

永享の乱とは?

(足利持氏の自害の図 出典:Wikipedia

 

 

永享の乱とは、室町時代の1438年(永享10年)に起こった鎌倉公方と将軍と関東管領との衝突のことです。

 

この事件によって鎌倉公方であった足利持氏が自害しました。

 

永享の乱が起こる前の背景

Ashikaga Yoshinori cropped.jpg

(第6代将軍足利義教 出典:Wikipedia

①クジ引き将軍足利義教

室町幕府も少しずつ落ち着いてきた1400年代初頭。室町幕府ではとある悩みがありました。

 

室町幕府第4代将軍足利義持は父である足利義満が大嫌い。親父の方針を無視して独自の路線を貫き通してきましたが、息子である第5代将軍足利義量は酒に溺れてしまい20歳で亡くなります。

 

仕方なく最初の頃は将軍代理として政務をしていましたが、その後義持も亡くなってしまいました。

 

当時、将軍になる資格のある義持の息子は4人いましたが、その人たちは室町幕府の慣例によって全員出家しており、さらに義持自身も後継者を選んでいません。

 

これに困った幕府は悩みに悩んだ末にまさかのクジ引きで将軍を決めようと思いつきます。

 

「こんな大事なことクジ引きで決めるの?」と思うかもしれませんが、当時のクジ引きは京都近くの石清水八幡宮の神前によって決められたことで言ってしまえば神頼みです。

 

そこで義円が選ばれ、その人が第6代将軍足利義教となりました。

 

②鎌倉府の仕組み

室町幕府は京都の室町というところにあったためそう呼ばれているように幕府は京都にありました。

 

そのため関東や東北地方にその権威が届きにくく、室町幕府の情報が伝えにくいという難点がありました。

 

そこで作られた役職が鎌倉府というものです。

 

鎌倉府というものは言ってしまえば室町幕府の関東地方バージョンといってもいいほど似ています。

 

まず、鎌倉府のトップに鎌倉公方がおり、その下に関東管領というポストがあるという状態でした。

 

永享の乱が起きる時の鎌倉公方は足利持氏という人でこの人は足利尊氏の四男である足利基氏の孫です。

 

対して鎌倉公方をしていたのは上杉家でした。(上杉といったら上杉謙信を思い浮かべると思いますが、実はこの上杉謙信。本名は長尾景虎といって上杉家とは全然関係ありません。)

 

当時、上杉家は上杉禅秀の乱という乱が起きており、足利持氏に討伐させられたばかりであまり持氏にとってはまた反乱が起きてはたまらないということで白い目で見られていました。

 

③幕府と鎌倉公方との対立

鎌倉公方である足利持氏はとても嫉妬が強い人でした。そんな持氏が怒る出来事が起こります。

 

それが足利義教の将軍就任でした。

 

上にも書いた通り足利義持が亡くなった後息子たちは全員出家していました。

 

持氏は「さすがに出家した人を無理矢理還俗(寺で修行することやめること)してまで将軍にするはずもないし、となれば鎌倉公方の俺が将軍になるはずだ!」と思っていましたが、結果はまさかのクジ引きで将軍を決めるという謎の事態に。

 

これに対して持氏はこの後、義教の将軍就任祝いの使節を送らないどころか、自分が将軍にふさわしいということで義教を将軍と認めませんでした。いや子供じゃあるまいし...

 

さらに持氏の将軍に対する反抗はエスカレートします。

 

例えば・・・室町幕府が中心となって改元した元号である『永享』への改元に応じず『正長』を使い続け、さらには自分の息子に偏諱(誰かの名前の一文字をもらって自分の名前にすること。この場合は足利義教の教という字を使うのが一般的である)もなく勝手に元服させたり。

 

とにかく持氏は幕府に従う気はなく、まるで独立組織のように鎌倉府を動かしていました。

 

鎌倉公方と関東管領との衝突

 

こんな行為をし続けていたら幕府から反逆者として見られてしまい、討伐軍が出されてしまうかもしれません。

 

これに対して危機感を持っていたのが関東管領であった上杉憲実でした。

 

(上杉憲実像 画像引用元

 

憲実は考えます。鎌倉公方がこんな調子だったら関東管領であるこの俺がなんとか食い止めないと!と思っており、なんとか持氏に対してこんな行為をやめさせなんとしてでも幕府に従順すべきと言いますが、持氏は憲実の言葉を徹底的に無視します。

 

持氏からすれば上杉禅秀の乱が起きたばっかりで上杉家が自分の立場を狙っていたと思っていたのでしょう。

 

さらに言えば憲実は持氏よりも1歳下。今でもいるじゃないですが、先輩こそが正義だと思っている人。この時の持氏がそうだったのかもしれません。

 

足利持氏の憲実討伐令と将軍の持氏討伐令

足利持氏は徹底的に自分の意見に反対してくる憲実に対して「あれ?こいつ俺の行為にいちゃもんをつけてるぞ?もしかしたら上杉禅秀の乱みたいに謀反するかもしれないな。」と思い始めます。

 

そして持氏は憲実が息子の元服式に来なかったことが原因でついに憲実の討伐令を各地に発布し、憲実を倒そうとします。

 

これに対して憲実はついに将軍義教に直談判

 

持氏の勝手な行動にイライラしていた義教はこれをチャンスとして見て朝廷から持氏の討伐令を出してもらいついに永享の乱が始まりました。

 

永享の乱の全容と結果

 

 

憲実は居城であった平井城(現群馬県)に戻りなんとか持氏に対して降伏を促しますが、持氏はお構い無しに平井城へと進軍します。

 

一方将軍義教は各地の大名に対して持氏を倒すよう命令。上杉家を始め各地の大名が鎌倉に向かって進軍していきます。

 

結果的には持氏は憲実に戦で敗れ、さらに各地の大名に攻められてしまい遂には鎌倉へと逃げ帰ってしまいます。

 

持氏はこれ以上戦ったら自分の命が危ないと遂に将軍へと従属を決断。自身は鎌倉の寺に出家して和睦を求めようとします。

 

憲実はとても優しく、さらに義理堅い人でした。出家してもう将軍への従属を決めたのならもういいと将軍に対して助命嘆願(命を助けるように願うこと)をしてなんとか持氏を助けようとします。

 

しかし、義教はその助命嘆願を突っぱねて持氏に対して総攻撃を開始しました。

 

結局、持氏は助かることなく自害。永享の乱は終わりを迎えました。

 

永享の乱のその後

 

 

永享の乱以降鎌倉公方は義教によって廃止。鎌倉府はいったん消滅しました。

 

しかし、持氏の息子である安王丸と春王丸と永寿王丸はなんとか生き延び、後に結城氏が幕府には向かい結城合戦という新たな戦が起きてしまいました。

 

この戦は義教の勝利に終わり、息子たちのほとんどが殺されますが、鎌倉公方はなんとかその後、永寿王丸によって再興します。

 

しかし、後に起こる享徳の乱によって古河に逃げてしまい、二度と鎌倉に戻ることはありませんでした。

 

その後関東地方は後北条氏が関東地方を席巻するまで泥沼の戦争が起き続けるのです。

 

永享の乱の語呂合わせ

 

永享の乱は1438年に6代将軍足利義教が、鎌倉公方の足利持氏を討伐した事件です。

 

『えー、きょうの(永享の乱)いよさんは(1438年)、あしがもっちり(足利持氏)、ヨシ、ノリノリ(足利義教)。』

 

と覚えましょう!

 

まとめ

・永享の乱は鎌倉公方であった足利持氏と関東管領であった上杉憲実との争いのこと。

・足利持氏は足利義教の将軍就任を認めず、好き勝手に政治をしていた。

・持氏が自分の意見に対して反対する憲実に対して討伐令を出して永享の乱が始まった。

・永享の乱によって持氏が自害した後、息子たちは結城合戦という戦いが起こりその後関東地方は戦乱に突入していった。




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