江戸時代後期に起こったシーボルト事件。日本の鎖国政策の終わりに影響を与えた重要な事件です。

 

今回はそんな『シーボルト事件』を日本の時代背景も含めてわかりやすく解説していきます。

 

シーボルト事件とは 

(シーボルト 出典:Wikipedia

 

 

シーボルト事件とは、1828年(文政11年)ドイツ出身の医師であるシーボルトが帰国する際、国外への持ち出しを禁止されていた日本地図などを持ち出そうとしていることが発覚、シーボルトを含む役人・関係者が処罰された事件のことです。

 

ここからはシーボルト事件が起こった背景から事件のその後まで詳しく解説していきます。

 

シーボルト事件の背景 ・きっかけ

①シーボルトの来日

フィリップ・フランツ・バルタザール・フォン・シーボルト(以下シーボルト)は1976217日、ドイツのヴァルツブルグという町で医学者の家に産まれました。

 

1820年、医学部を卒業したシーボルトは近くの町で医者として働いた後見知らぬ国の自然を学びたいという思いからオランダ陸軍の軍医となります。

 

翌年、シーボルトはオランダの命令にてオランダ人医師として来日します。その際にただの医師としてではなく、日本と貿易を進めるために日本のことを調べるよう命じられていたとも言われています。

 

②江戸幕府の対外政策

 

 

シーボルトが来日したのは、1823年、いわゆる日本が鎖国状態にあった時代です。

 

鎖国とはキリスト教の布教を禁止し、また江戸幕府が貿易を管理するために講じた政策です。

 

その政策として外国との貿易は四口と言われる長崎・対馬(現在の長崎県)・薩摩(現在の鹿児島県)・蝦夷(現在の北海道)の4箇所で行われていました。

 

江戸時代後期になるとロシア、イギリス、アメリカ、フランスなどが貿易を求めて来航し、ロシアの強硬な開国要求やイギリス海軍のフェートン号が長崎へ入港するなどの事件が起こりました。

 

そして、日本の漁民と欧米の捕鯨船の乗組員が行っていた物々交換が発覚したことをきっかけとして1825年に異国船打払令が出されます。

 

この異国船打払令とは外国船の来航を武力によって防止し、外国人と日本の民衆との接触を阻止することを目的とした政策で、中国とオランダ以外の日本沿岸に来航した外国船をためらわず撃退するように命じたものでした。

 

このようにシーボルトが来日していた期間は江戸幕府の対外政策が強硬姿勢に転じた時代でした。

 

③日本でのシーボルトの活動『事件のきっかけ』

(長崎の出島 出典:Wikipedia

 

 

シーボルトは1823年の8月、日本の長崎にある出島に来日します。

 

出島とは江戸時代に作られた人工の島で、作られた当時は外国人の入国を管理することを目的としていました。

 

その後いったんは無人島となりましたが、平戸にあったオランダ商館を移転し貿易の窓口となっていた場所です。

 

シーボルトが来日した当時は、来日した外国人は出島から出ることを禁止されていましたが、医師として信頼を得たシーボルトは特別に出島から出て長崎の町で診療することを許可されていました。

 

日本に来た翌年の1824年には出島の外、長崎の町に鳴滝塾を作り西洋医学(蘭学)を教え始めました。

 

塾生として高野長英や二宮敬作などがあり、後に医者や学者として活躍しています。

 

またシーボルトは日本の文化を研究しながら1825年には出島に植物園を作り、約1400種の植物を栽培しています。

 

1826年にはオランダ商館長と共に江戸に向かい、当時の将軍である徳川家斉と謁見し、江戸の学者らとの情報交換を行います。

 

この際、天文方である高橋景保に最新の世界地図を送り、そのお返しとして最新の日本地図を受け取りました。

 

このとき受け取った日本地図が後のシーボルト事件を引き起こします。

 

1827年には日本人の楠本瀧との間に一人娘である楠本イネを儲け、帰国するまで母娘と出島で暮らします。

 

シーボルト事件の内容

(1783年に出版された日本地図 出典:Wikipedia

 

 

1828年にシーボルトが帰国する際、シーボルト事件が起こりました。

 

これは帰国の際に持ち帰ろうとしていたシーボルトの荷物の中から当時国外に持ち出すことが禁止されていた日本地図や将軍家の家紋である葵の紋付の着物などが発見されたものです。

 

その結果、シーボルトは軟禁され、十数名が処分されました。

 

その中には日本地図を送ったとされる高橋景保もおり、高橋景保は後に獄死します。

 

その中でシーボルトは、捕まった日本の友人たちを救おうと自らが人質になることも提案しました。1829年にシーボルトは国外追放と再渡航禁止処分を受けました。

 

シーボルト事件のその後

(長崎公園シーボルト記念碑 出典:Wikipedia

①国外追放後のシーボルト

シーボルトは国外追放処分となり、1830年にオランダに帰国します。

 

この際に日本で収集した文学的なコレクション、様々な動物・植物の標本を持ち帰っています。

 

この持ち帰った資料を基にシーボルトは日本についての研究書である「日本」や日本の動植物を紹介する「日本動物誌」「日本植物誌」などを出版します。

 

1854年に日本は開国し、1858年に日蘭修好通商条約が結ばれます。この条約によって日本とオランダとの国交が回復しシーボルトの国外追放もとかれます。

 

シーボルトは国外追放の処分がとかれた後、1859年にオランダ貿易会社顧問として再来日し、1861年には諸外国との交渉のための幕府顧問となります。

 

また、このときに日本人初の産科医となった娘、楠本イネとも再会しています。

 

その後も江戸でヨーロッパの学問を教え日本の研究を進めていましたが、江戸退去を命じられた後、1862年に帰国しました。1866年、敗血症にて死去しています。

 

(晩年のシーボルト 出典:Wikipedia

 

②シーボルト事件後の日本

シーボルトが去ってからの日本は天保の大飢饉が起こり、一揆や打ちこわしが日本各地で起こります。

 

シーボルトが来日していた江戸時代後期は開国を求めて諸外国が日本近海に現れる事件がたびたび起こっていました。

 

そのため異国船打払令も出されましたが1837年、アメリカの商船を砲撃したモリソン号事件を受け、国内外からの批判が生まれます。

 

国内からの批判として鳴滝塾出身である高野長英が「戊戌夢物語」を記しますが、この批判を知った幕府は高野長英が所属する尚歯会に対し、弾圧を行います。

 

この弾圧事件は蛮社の獄と呼ばれ、後に高野長英も捕縛されます。

 

このように日本国内が混乱する中、モリソン号事件に対する諸外国からの批判や1840年のアヘン戦争において清(中国)がイギリスに敗れたことから、江戸幕府は欧米諸国への対応を軟化させます。

 

異国船打払令は廃止され、1842年には外国船に薪や水の便宜を図る薪水給与令が出されます。

 

 

この江戸幕府の方針転換が後の開国の大きな要因となり、明治維新へとつながっていきます。

 

まとめ

 シーボルト事件とは来日していた医師シーボルトが国外に持ち出しを禁止されていた日本地図などを持ち帰ろうとした事件。

 シーボルト事件を受け高橋景保など多くの役人が処罰されシーボルト自身は国外追放処分となった。

 シーボルト事件が起こったときの日本は諸外国が開国を求めて来航し、日本国内でも開国派と鎖国派による混乱が起こっていた時代であった。




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