【織豊政権(織豊時代)とは】わかりやすく解説!!特徴や政策・覚え方【まとめ】

 

安土桃山時代は、戦国大名の織田信長と豊臣秀吉が政権を握っていた時代でもあります。

 

そのため、安土桃山時代は織豊政権(織豊時代)ともいいます。

 

今回は、そんな『織豊政権(しょくほうせいけん)』についてわかりやすく解説していきます。

 

織豊政権とは?

 

 

戦国大名の織田信長が室町幕府第15代将軍足利義昭を京都から追放し、室町幕府が滅亡した1573年(元亀4)から、戦国大名の豊臣秀吉が死去した1598年(慶長3)までを、安土桃山時代といいます。

 

この時代の間は、織田信長と豊臣秀吉が中央に権力を集めていた時代でもあるため、2人の名前の頭文字をとって「織豊(しょくほう)時代」もしくは「織豊政権」とも呼ばれています。

 

(実際には、織豊時代(安土桃山時代)の始まりの時期と終わりの時期は説が分かれています)

 

織田信長について

(織田信長 出典:Wikipedia

 

 

尾張(現在の愛知県)に生まれた織田信長は、尾張の領主として成長し、1560年(永禄3)には桶狭間の戦いで駿河(現在の静岡県)の戦国大名・今川義元を討ちました。

 

力を強めていた織田信長は、弱っていた室町幕府に足利義昭を第15代将軍にさせ、自分も京都で権力を振るえるようにします。

 

敵対勢力と戦いながらも着実に力を強めていき、天下統一まで目前というところで1582年(天正10)、家臣だった明智光秀の裏切り(本能寺の変)により京都の本能寺で追い詰められ、自害しました。

 

織田政権の特徴

①幕府と朝廷の権威を利用

織田信長が権力を強めたのは、足利義昭を室町幕府の第15代将軍に奉じたという点がとても大きいです。

 

信長が足利義昭を将軍の地位につかせるまで、室町幕府は崩壊寸前といった状態でした。

 

13代将軍の足利義輝は、三好三人衆によって永禄の変で討たれてしまいました。室町幕府は三好三人衆に乗っ取られてしまいましたが、この窮地に、信長が足利義昭を連れて京都に入ります。

 

信長は三好三人衆などを京都から追放して、足利義昭を将軍にさせ、室町幕府を立て直しました。

 

室町幕府を再興させた立役者である信長は、足利義昭の後見人として、政治の権力を握ります。

 

およそ200年以上も続いた室町幕府の将軍家の権威を自分の権力を強めるために利用しました。

 

また、朝廷に対しても、朝廷の財政を立て直したり、天皇が住んでいる内裏とよばれる住居を修復したり、天皇に対して譲位するための資金援助をしたり、朝廷への忠誠をアピールしました。

 

このように、信長は伝統的な権威を利用するために様々な策略を巡らせていたのです。

 

②革新的な政策

信長が行った政策は、当時にしては革新的なものが多くありました。

 

信長自身、南蛮文化に対して大いに興味を持っていたり、鉄砲など兵器に対しても新しいものを取り入れたりなど、時代の先を見据える力があったと言っていいでしょう。

 

そのため、楽市・楽座などの政策も、それまでにはなかった新しい政策を行いました。

 

信長の政策は、その後の近世の時代に大きく影響を与えたと言われています。

 

織田信長の政策

①楽市・楽座

織田信長による楽市・楽座とは、座の商人の特権や市場の税を廃止し、自由に取引ができる市場をつくり、座を解散させた政策のことをいいます。

 

座とは、商人たちの組合で、いわば会社のような存在です。その町で新しく商売を始めたい人がいても、このような組合が市場を取りまとめているので、商売を始めづらいのです。

 

そこで信長は、この組合である座を解散させ、座の商人が市場を独占している状態から、どんな商人も自由に商売ができるようにしました。そして、税金も安くし、城下町(自分の支配地)をどんどん活性化させるように図ったのです。

 

この楽市・楽座の政策は、信長は最初に始めたのではなく、近江国(現在の滋賀県)の六角定頼が先に始めていたといいます。

 

楽市・楽座は1577年に実行されたので「以後なんな(1577)りと、楽市楽座」と覚えましょう。

 

 

②関所撤廃

信長は、交通の要所に設置された関所という徴税や検問をする施設を撤廃させました。関所はもともと、国に入る場所を限定させるなど、安全のために設けた場所でした。

 

しかし、この頃には安全のためというより、通行料をとるためだけにあったという感じで、つまりはお金儲けのために関所を設けていました。

 

関所がたくさんあれば、その分物流にお金がかかってしまいます。

 

物を運ぶだけでお金がかかるのに、さらに関所でもお金を払わなければいけないからです。

 

信長はこの関所を徹底して廃止しました。お金をとられる関所を廃止すれば、他の国の商人たちは「信長の領地に行けばお金をとられずに物を売れる」と思います。こうして、信長の領地では物流が盛んになりました。

 

関所の撤廃は1568年に行われたので「以後(15)の小遣いは無理や(68)で、関所はなくなったし」と覚えましょう。

 

 

③キリスト教を庇護?

信長が日本仏教の母山ともよばれる比叡山延暦寺を焼き討ちにしたのは有名な話です。

 

信長は天下統一をするために、自分にとって障害となる勢力は、たとえ伝統的な宗教勢力でも排除していきました。

 

一方で、キリスト教に対しては教会を建設する許可を出すなど、キリスト教を庇護する立場にいました。

 

仏教の寺社勢力と対立していたということもあって、信長はキリスト教を優遇していたと長い間思われていました。

 

しかし、キリスト教を特別視してきたわけではないというのが、最近の一般的な考え方です。

 

信長は、自分に対抗する宗教勢力には激しく対立する姿勢をとりましたが、逆に、自分に対抗しない宗教に対しては、その存在を認めていました。

 

豊臣秀吉について

(豊臣秀吉 出典:Wikipedia

 

 

尾張の身分の低い農民の家で生まれた豊臣秀吉(このときは木下藤吉郎)は、織田信長に仕え、戦国武将としての才能を開花させました。

 

信長の重臣として戦にも出ていましたが、本能寺の変で主君・織田信長は明智光秀に討たれてしまいます。

 

信長亡きあと、秀吉は信長の後を継ぎ、天下統一を目指します。

 

そして、大阪城を築き、関白・太政大臣の位につき、朝廷から「豊臣」の姓を賜ったことで、天下統一を果たしました。

 

様々な政策を行い、朝鮮出兵の最中に病気で死去しました。

 

豊臣政権の特徴

①朝廷の権威を利用

豊臣秀吉も、織田信長と同じように朝廷の権威を自分の権力を強めるために利用しました。

 

秀吉は惣無事令などの政策を、天皇の名前で実行したりしました。

 

天皇の名前をつかうことで、豊臣家に従っていない大名たちを天皇への忠誠を誓わせることで、豊臣家に従わせることができます。

 

朝廷の権威を利用したことで、もともと主君だった織田信長の織田家とも立場が逆転し、豊臣家が全国の大名のトップに君臨しました。

 

②武家関白制

秀吉は征夷大将軍の位を朝廷からもらうことを目指していましたが、関白の地位から変わることはありませんでした。

 

そのため、秀吉は「武家関白制」という関白という地位を世襲制(親から子へ渡すこと)にし、幕府に代わる支配制度をつくりました。

 

しかし、秀吉は子供に恵まれず、親類も数少なかったといいます。この血縁の少なさが豊臣政権の崩壊の一因とも言われています。

 

豊臣秀吉の政策

①惣無事令

秀吉は、大名間の私的な領土争いを禁止する政策を出しました。これを「惣無事令」といいます。

 

この惣無事令は、天皇の名をつかって実行した政策でした。

 

そのため、この惣無事令を破った大名たちには、天皇の名の下で、秀吉が大名を処罰(討伐)できます。天皇の名前をつかって実行したのは、こうした大義名分を得るためでした。

 

また、私的な領土争いを禁じることで、全国の大名たちは必然的に豊臣政権に服従しなければいけなくなりました。

 

惣無事令は1586年に実行されたので「豊臣の以後は無(1586)敵の惣無事令」と覚えましょう。

 

②太閤検地

秀吉が行った全国的な検地を「太閤検地」といいます。

 

太閤とは「前関白」のことで、秀吉のことをいい、検地とは、農民から年貢を取り立てるために、田んぼや畑の面積、収穫量を調べることをいいます。

 

それまではバラバラだった検地の方法(面積の計量の方法や基準)を全国で統一しました。

 

太閤検地を行ったことで、農民は自分の土地から離れられなくなりました。

 

また、太閤検地と一緒に農民から刀を没収した刀狩り令などによって、農民と武士をしっかり区別させました。

 

太閤検地は1582年に実行されたので「十五夜に(1582)はじまる太閤検地」と覚えましょう。

 

 

③バテレン追放令

秀吉が国内にいたキリスト教宣教師に国外退去を命じた法令を「バテレン追放令」といいます。

 

当時バテレンとは「伴天連」と書き、ポルトガル語の「padre(神父)」が由来でした。

 

秀吉は信長と同じように、キリスト教には寛容な態度をとっていました。

 

しかし、九州征伐のとき、長崎がイエズス会の領地になっていることに驚きます。

 

キリスト教の領土が拡大し、キリスト教徒による反乱や、ポルトガル人による奴隷貿易に日本人が巻き込まれることを防ぐために、秀吉はバテレン追放令を実行しました。

 

バテレン追放令は、キリスト教自体を禁止するものではありませんでした。キリスト教を信じることをやめさせることはなかったし、ポルトガルとの貿易を取りやめることもありませんでした。

 

バテレン追放令は1587年に実行されたので「以後はな(1587)らんとバテレン追放」と覚えましょう。

 

 

まとめ

✔ 織田信長と豊臣秀吉が中央に権力を集めていた時代を「織豊時代」もしくは「織豊政権」ともよぶ。

✔ 織田政権の特徴は、伝統的な権威の利用と、革新的な政策にあった。

✔ 織田信長の主な政策は、自由な市場にするために座を解散させた「楽市・楽座」や物流を円滑にするための「関所撤廃」などがある。

✔ 豊臣政権の特徴は、朝廷の権威を利用したことと、武家関白制にある。

✔ 豊臣秀吉の主な政策は、大名間の私的な争いを禁じた「惣無事令」や、全国的な検地を行った「太閤検地」や、キリスト教宣教師の国外退去を命じた「バテレン追放令」がある。