“倹約令”と聞くと、少し心寂しい世知辛い感じもしますが、何を辛抱したの?という疑問がわきますね。

 

日本の歴史の中ではこの倹約とは、どのように使われていったのでしょうか?

 

今回はそんな『倹約令』についてわかりやすく解説していきます。

 

倹約令とは

 

 

倹約令とは、江戸時代の一連の質素倹約に関連する法令のことです。

 

この倹約令には『財政引締のもの』と『節約奨励・奢侈(しゃし)禁止のもの』の大きく分けて2種類ありました。

 

それぞれについて解説していきます。

 

①庶民の節約奨励・奢侈禁止など消費を抑えるもの

古代から続く「分相応にする」という考えのものですね。

 

これにより「士農工商」の身分秩序を維持し、それぞれの枠を超えた奢侈を抑えようとしたもので、幕初から、幕末まで常時発せられました。

 

身分制度の確立と維持は幕府体制を強固にする上でも必要不可欠だったのです。

 

しかし、ここでの「奢侈(しゃし)」は経済発展や生活向上によりもたらされたものも多かったので、禁止できたかというのは疑問が残るものでした。

 

今の時代でいうと、洗濯機をやめて洗濯板にしろと言われても…という感じでしょうね。

 

 

②幕府や諸藩の財政危機を打開するためのもの

経済的に厳しくなったから、支出を抑えましょう!ということです。

 

江戸幕府では初代~4代までは安定した政治を行っていましたが、その後直轄金山・銀山の枯渇や長崎貿易での資源流出、明暦の大火・地震・富士山の噴火など、災害への復興事業などで財政の危機が割と早い時期に起こります。

 

それに並行して幕末までほぼ切れ目なく「倹約令」が発令されていくことになるのです。

 

倹約令の目的

 

 

倹約令の中で強調されたのは「身分相応」ということでした。

 

特に三大改革時(以下で説明)では風俗取締令と絡め、厳重な倹約令が断行されましたが、力をつけてきた庶民に対して、身分制の枠を超えた生活を抑えることに重点がおかれていたのです。

 

生活の隅々にまで及ぶ細かな規制は、農村の荒廃をなくして安定した農業生産を維持させようとする幕府や諸藩の財政難克服の方策のひとつでもありました。

 

しかし、同時にゆるみつつあった身分制度を守ろうとする動きでもあったのです。

 

 

江戸時代の三大改革と倹約令「内容・効果」

①享保の改革

有名な8代将軍徳川吉宗が行った改革のことです。

 

幕府が財政難だったので、吉宗は倹約令を出して質素倹約に努めるよう大名に命じます。

 

個人の家庭なら財政難になったら節約するのは当り前であり、財政改善につながるはずです。

 

吉宗も紀州藩だけでなら、ある程度成果は出せたかもしれません。

 

ところが、幕府ほどの大きな政治団体がこの節約を実施すると景気が冷え込んでしまいます。

 

何故なら、江戸の商人の大部分は幕府や大名などを相手に商売をしていますが、その人たちが節約すると商品が売れずに余り、大損してしまいます。

 

すると、商人はお店を縮小するなど事業改善をしなければなりません。

 

働いていた奉公人がリストラされたり、商品の仕入先の業者も損害を受けたりと、かなり広範囲に経済的な影響が出てしまうのです。

 

またこの改革では、同時に年貢率引き上げによる増税も実施していましたので、町人や農民の不満がつのり、打ちこわしや一揆などが頻発するようになり、この政策は失敗に終わりました。

 

 

②寛政の改革

吉宗の孫にあたる老中松平定信による改革です。

 

この改革前の田沼意次の政治は「倹約令」には反しますが、当時の社会情勢や経済基盤を配慮した上での政策でした。

 

商業へ重きをおき貨幣経済を活発に動かすことで幕府の現金収入を高め、結果的に幕府財政の立て直しを図っていったのです。

 

諸々の理由で、田沼が失脚した後を受けたのがこの改革でした。

 

定信は、緊縮財政や風紀取締りによる幕府財政の安定化を目指したようです。

 

しかしながら、一度許された贅沢を禁止されたこと、大名だけではなく、庶民にまで倹約を強要したことは不満を高めました。

 

また風紀取締りは、公衆浴場での混浴禁止など良い点もありましたが、出版統制により浮世絵師を処罰するなどがあり、極端な思想統制令とも合わせて、経済・文化の停滞を招く大きな原因となってしまうのでした。

 

 

③天保の改革

老中水野忠邦による改革です。

 

大筋としては寛政の改革の延長のようなものだったようですね。

 

風俗取締りの中で、芝居小屋の江戸郊外(浅草)への移転、寄席の閉鎖など、庶民の娯楽に制限を加え、歌舞伎役者や人情本作家などを処罰しました。

 

生産性の向上を主と考えた政策だったので、淫らな内容で生産力に寄与せず、就労の妨げになるようなサービスや出版物を作っていた、として摘発を受けたようです。

 

寛政も天保も幕府の権威が強かった時代に復古したいという改革だったようですが、その為に町人などが武士より良い暮らしをするのはけしからん!として色々規制すれば、多くの反発を招くのは当然だったのでしょう。

 

 

倹約令のその後

 

 

江戸時代、幕府や諸藩の生活は農民の年貢で成り立ち、経済の基盤でもありました。

 

ところが、時代が進むにつれて商品経済が浸透し、武家から庶民まで生活スタイルが変化しく中で農業中心政策に戻そうとしたとしても上手くいくはずがありません。

 

数多く発令された「倹約令」が成功しなかったのはその辺の読み違いが問題だったのでしょう。

 

ただ、戦時中にも「欲しがりません、勝つまでは」という贅沢禁止という名の意識統制がありました。

 

これも大きく見ると「倹約令」の一種かもしれません。

 

現代では、不況なのに緊縮経済政策をするような改革は失敗しています。

 

しかも景気を抑えるような倹約令などは、全くの逆効果となりますね。

 

近年、東日本など各地で災害が起こった際に、被災地へ配慮して買い物自粛を求める声が聞かれました。

 

ところがそれでは災害地の復興支援ができないから、沢山動かして、日本経済を活発化させなくては!という意見が出ましたね。

 

被災地のアンテナショップ等で積極的に買い物をする姿をTVで見たことはあるでしょう。

 

まとめ

・「倹約令」は江戸時代の一連の質素倹約に関連する法令の総称。

・「倹約令」には財政引締のものと節約奨励、奢侈禁止のものがある。

・単なる節約ではなく、『分相応』を強調した身分秩序の維持も目的としていた。

・財政面での節約は、個人なら効果があるが、団体では景気に影響を及ぼしてしまう。

・時代の流れと経済基盤の変化から、「倹約令」は近世以降効果が期待できない。




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