【江戸時代の外交について】わかりやすく解説!!幕府の外交政策【まとめ】

 

江戸幕府の外交政策といえば、一昔前までは「鎖国」という言葉で知られていました。

 

中国やオランダを除く外国との交流がなくなり、世界の流れからも孤立し、国内に閉じこもった――。従来はそんなイメージでとらえられるのが一般的でした。

 

ところが、最近このような見方には、さまざまな観点から疑問が提起されています

 

今回は、『江戸時代の外交』について、簡単にわかりやすく解説していきます。

 

江戸幕府の外交政策とは?

(貿易のために築造された出島の鳥瞰図 出典:Wikipedia

 

 

江戸幕府ははじめ朱印船貿易を行いましたが、貿易体制の崩壊とキリシタンの増加に対応するため1641年に貿易制限をしました。

 

いわゆる「鎖国」と呼ばれるものです。

 

これによって、主にオランダや中国としか交易ができなくなりました。

 

しかし、近年では松前藩、対馬藩、薩摩藩の交易を含めて、「四つの窓」があったことが強調されています。

 

幕末には中国を経由してさまざまな国の船が日本にやって来るようになりました。

 

そして、ペリーの来航をきっかけに江戸幕府は次々と貿易制限を解除していきました。

 

幕府の外交政策の背景

(朱印船 出典:Wikipedia

①朱印船貿易の時代

江戸時代初期は朱印船貿易が最も盛んな時期でした。

 

 

朱印船とは、海外渡航の許可証である朱印状をもった貿易船のことで、室町時代から江戸時代初期まで活躍しました。

 

朱印船の主な行き先は、東南アジアの各地でした。現在のフィリピンからベトナム、カンボジア、インドネシアまで交易をしに行っていました。

 

東南アジアにはオランダの東インド会社の船も来ていたので、ヨーロッパからの輸入品を取り扱うこともありました。

 

各地には交易の手助けをする日本人が住み着いた日本町ができており、少なくとも江戸時代初期まではグローバルな経済活動があったと言えます。

 

②奉書船貿易の時代

江戸時代初期には、朱印状の交付はしだいに特定の大名や有力な商人にしか認められなくなっていきます。

 

そのため、各地の大名や幕府の家臣の中には、朱印状をもたずに無断で貿易をする者が出てくるようになりました。

 

また、1628年にはタイで朱印船がスペイン船に攻撃される事件が起こります。幕府はこれによって将軍の権威が傷つけられたととらえました。

 

このような事態に対処するために、幕府は1631年に朱印状を廃止し、その代わりに老中が連名で署名した奉書を交付するという制度を始めました。

 

貿易船はこの奉書にもとづいて長崎奉行が発行した渡航許可証を持たなければならなくなりました。

 

こうした貿易船を奉書船と言います。

 

③キリシタンの増加

江戸時代初期には、朱印船貿易制度の崩壊とは別に、もう一つの問題がありました。それは国内におけるキリシタン(キリスト教徒)の増加です。

 

キリスト教は1549年にフランシスコ・ザビエルが布教して以来、西日本を中心に広まっていきました。

 

しかし、その教えが封建制にそぐわないと考えた豊臣秀吉によって、1587年に宣教師を追放することを決めたバテレン追放令が出されます。

 

 

さらに1596年のサン・フェリペ号事件の後、宣教師と信徒計26人が処刑されました。

 

 

このようなキリシタン弾圧の方針は、江戸幕府も受け継ぐことになります。

 

1613年に全国には禁教令を出し、キリスト教の信仰を禁止します。

 

 

そして、1637年の島原の乱以降は、キリシタン弾圧はさらに激しくなり、絵踏み宗門改寺請制度など、次々と対策が打たれていきます。

 

一部の信者が隠れキリシタンとして残りますが、多くの人はキリスト教を捨てざるをえませんでした。

 

④海外渡航の禁止と外国船来航の制限

このように、幕府は江戸時代初期に朱印船貿易制度の崩壊とキリシタンの増加という二つの問題に直面していました。

 

これに対応するため、幕府は1633年に奉書船以外の海外渡航と海外在住5年以上の者の帰国を禁止しました。

 

さらに、1635年には、すべての日本人の海外渡航と海外在住者の帰国を禁止しました

 

これが海外渡航禁止令と呼ばれるものです。無断で帰国した者は死刑にするなど厳しい罰則が定められました。

 

こうして日本人は海外に進出することがなくなり、海外との交易は日本に来航する外国船を通して行われるようになりました。

 

また、東南アジア各地の日本町に住んでいた日本人は帰国することができなくなり、そのまま見捨てられました。

 

1639年にはポルトガル船の来航が禁止され、ヨーロッパの貿易船はオランダ船だけになりました。

 

さらに、1641年には平戸のオランダ商館を出島に移転しました

 

これによって、江戸時代の海外貿易体制が確立しました。

 

幕府の外交政策の内容

(長崎港図 出典:Wikipedia

 

 

従来、1641年以降の海外貿易体制は「鎖国」と呼ばれてきましたが、最近では「四つの窓」があったことが強調されています。

 

それぞれを順に見ていきましょう。

 

①長崎

長崎は幕府の直轄領であり、江戸時代初期には朱印船貿易の拠点の一つでした。

 

1641年以降は、貿易の相手がオランダと中国に限定されました

 

 

オランダ人は出島中国人は唐人町のみに居留が許され、幕府の厳しい監視の下で交易が行われました。

 

オランダや中国との交易では、当初は糸割符と呼ばれる一括購入方式が採用されましたが、1655年にその方式は廃止され、相対貿易と呼ばれる自由貿易が行われました。

 

ところが、輸入品の価格が高騰し、国内の銀が海外に大量に流出するようになったため、幕府は再び交易の統制を強め、市法売買という手法を採るようになります。

 

その後、生糸に関しては糸割符が復活し、貿易総額の枠が定められるなど、幕府の政策は二転三転しました。

 

幕府の方針としては、特定の商人に貿易を独占させることで、最大の輸入品である生糸を一括購入させて価格を下げさせ、同時に金や銀、銅といった貴金属が海外に流出することを防ぐことが目指されました。

 

主な輸入品は生糸、絹織物、砂糖、薬種、雑貨で、主な輸出品は金でした。

 

②松前藩

北海道の南西部を治めた松前藩は、幕府からアイヌとの交易の独占権を与えられていました。

 

アイヌは蝦夷地の先住民で、当時は中国とも交易をしていたので、松前藩はアイヌとの交易を通して中国の絹織物を手に入れることができました。

 

この絹織物は「蝦夷錦」や「山丹錦」とも呼ばれ、赤地や青地の布に龍や牡丹などの紋様が織り込まれた美しいものでした。

 

そのため、松前藩から幕府への貢ぎ物としても使われました。

 

松前藩はアイヌとの交易を独占するため、日本人の居住地域とアイヌの居住地域を厳格に区分して、その境界に見張りを置き、往来を厳重に検査しました。

 

特に、アイヌが日本人の居住地域に出入りすることは厳しく制限され、役所を通さずに日本人の百姓と直接交易をすることは禁止されていました。

 

日本最北にあり、米が生産できなかった松前藩にとって、アイヌとの交易は貴重な収入源でした

 

③対馬藩

豊臣秀吉が朝鮮に侵略した文禄・慶長の役以来、日本と李氏朝鮮との間の国交は断絶していました。

 

 

江戸時代に入ると、徳川家康は李氏朝鮮との国交回復を目指し、対馬藩の藩主を代々務める宗氏に仲介役を依頼しました。

 

宗氏は李氏朝鮮と信頼関係を築き、ついに1605年の日韓和約で国交が回復し、1607年には李氏朝鮮の使節である朝鮮通信使が来日しました。

 

 

この功績が認められて、これ以降の朝鮮との交易は対馬藩が独占することになりました。

 

また、1811年まで計12回にわたって朝鮮通信使が来日しますが、対馬藩はそのたびに仲介役を務めています。

 

④薩摩藩

薩摩藩は1609年に幕府の許可を得て、琉球王国(現在の沖縄県)に侵攻し、征服してしまいます。

 

それまで琉球王国は中国への朝貢で栄えていたのですが、これ以降は中国への朝貢を続けつつも、その利益は薩摩藩が得るようになりました。

 

 

中国の海禁政策との比較

 

 

1641年以降の海外貿易体制は、近年では中国の海禁政策とも比較されています。

 

中国では明・清の時代に、中国人の海外渡航や貿易を禁止する政策が何度か行われました。これを海禁政策と言います。

 

明では倭寇を取り締まるため、1371年から海禁政策が行われ、周辺諸国との交易は朝貢のみに限定し、民間の商船の来航は禁止されました

 

しかし、密貿易の取り締まりに失敗し倭寇の活動が活発化したため、1567年に海禁が解かれました。

 

清では南明や台湾の勢力を押さえるため、遷界令が出され、沿岸の住民を内地に移住させるという政策が行われました。ですが、台湾の勢力を平定すると、この政策は緩和されました。

 

その後、1757年には貿易港を広州1港に限定するという海禁政策が行われました。

 

この体制はアヘン戦争後の1842年の南京条約締結まで続きます。

 

 

特に1757年以降のこの状況は、日本がオランダや中国との貿易港を長崎に限定したことや、ペリーの来航によってその体制が崩れることと比較することができます。

 

幕府の外交政策のその後

 

 

江戸時代後期になると、日本近海に外国船が出没することが多くなります

 

そこで、幕府は異国船打払令を出し、外国船をすべて追い払うことを決め、外国人が日本に上陸した場合には逮捕や射殺を命じました。

 

 

ところが、1842年に中国がアヘン戦争でイギリスに敗北すると、幕府は危機感を抱き、老中の水野忠邦らが異国船打払令を緩和し、外国船が来たら燃料を渡して帰ってもらうという薪水供給令に変更しました。

 

その後、中国を経由してペリーが日本に来航したのをきっかけに、1854年に日本はアメリカと日米和親条約を結び、下田と箱館の2港を開くことを決めます。

 

さらに、1858年には日米修好通商条約を結び、下田箱館のほか、神奈川長崎新潟兵庫が開港されることになります。

 

 

これ以後、他の外国とも同様の条約を結びます。

 

こうして1641年から続いてきた海外貿易体制は終わりを迎えました

 

まとめ

✔ 江戸時代初期には朱印船貿易が行われた。

✔ しかし、貿易体制の崩壊とキリシタンの増加に対応するため、1641年に貿易制限をし、」主にオランダや中国としか交易ができなくなった。

✔ 1641年以降、日本は長崎、松前藩、対馬藩、薩摩藩という「四つの窓」があった。

✔ 最近ではこの状況は中国の海禁政策とも比較されている。

✔ 幕末にはペリーの来航をきっかけに、江戸幕府は次々と貿易制限を解除した。