【惣百姓一揆とは】わかりやすく解説!!全藩一揆との違いは?意味や原因など

 

江戸時代において一揆は禁止されていました。

 

ですが、農民達は不満があると暴徒化して集団や個人が武力など実力行使で藩や幕府に抗議していました。

 

今回はそんな一揆の一つ『惣百姓一揆(そうびゃくしょういっき)』について意味や原因・全藩一揆との違いをわかりやすく解説していきます。

 

惣百姓一揆とは?

 

惣百姓一揆とは、幕府や藩に年貢の増収や税の課税などに対抗して農民が起こした一揆のことを言います。

 

中でも藩規模で行われたものを全藩一揆といいます。

 

農村のなかでも掟があり、それが農民同士の結束を強化することに繋がりました。

 

惣百姓一揆の例として「武左衛門一揆」「磐城平元文一揆」「嘉助騒動」があります。

 

室町時代から農民が不満を募らせ武力で反抗する一揆は多く発生していました。日本最古の一揆は1428年の正長の土一揆です。

 

惣百姓一揆が起こった背景

 

江戸時代は地震や火山の噴火、飢饉に何回もみまわれた時代でした。

 

これらの災害により米の収穫高が減ると年貢が払えなくなったり、藩財政の悪化から税負担が増えました。

 

また、この頃不正代官の罷免、藩や幕府による専売権の廃止を求めるようになるなど農民たちの不満が高まっていました。

 

そこで農民たちは一揆を起こし大名や幕府に改善を求めたのです。

 

江戸時代に起こった一揆の種類

 

江戸時代に起きた一揆はやり方ごとに4種類に分けられています。

 

①代表越訴型一揆

代表越訴型一揆とは、17世紀後半頃から将軍や大名の苛酷な支配や年貢に対し、村役人や百姓が将軍に直訴した一揆のことで、個人や少人数で行われました。

 

この一揆によって村役人が義民(代表で処刑)となりました。

 

例:磔茂左衛門一揆

 

②惣百姓一揆

惣百姓一揆とは、17世紀末、村役人や百姓が連帯して年貢増集や新税の停止、専売制に反対して大名や幕府に強訴した一揆のことです。

 

農民は藩に協力する商人や村役人の家を打ちこわすなど実力行使にでました。

 

藩全体で起きたものを全藩一揆と言います。

 

この頃から傘連判状という主導者を分からなくするためや、責任を連帯するという意味で証文が作られはじめました。

 

例:「武左衛門一揆」「磐城平元文一揆」「嘉助騒動」

 

③世直し一揆

世直し一揆とは、幕末~明治維新期にかけて水呑百姓、小作人など下層民が参加して幕府、大名、高利貸し、地主など支配層全体を攻撃した一揆のことです。

 

年貢の減免、新税反対、質の無料返還を求めました。

 

例:ええじゃないか

 

 

④そのほか『一揆以外の農民の抵抗』

一揆以外でも農民たちは武力蜂起したり、農村から逃げる逃散を行い藩主や幕府に対抗していました。

 

惣百姓一揆の例

①1793年「武左衛門一揆」

武左衛門一揆とは、伊予宇和島の吉田藩で起きた一揆のことです。

 

藩の御用商人法華津屋に紙の専売権を与えたため、製紙業に従事している農民の収入が激減しました。

 

そこで、吉田藩の日吉村に住む武左衛門が主導となり法華津屋に打ちこわしを行い、専売権を改めるように訴えました。

 

藩はそれに対して家老の安藤継秋が切腹をして責任を負いました。

 

また、主張を認めることと、一揆の主導者を処罰しないことを約束しました。ですがすぐに裏切られ、一揆に参加した農民から聞き出し、武左衛門は処罰されてしまいました。

 

②1738年「磐城平元文一揆」

磐城平元文一揆とは、陸奥国磐城平藩で起きた全藩一揆のことです。

 

藩の財政が苦しく、商品の流通や生産に対して新しく税を課しました。

 

それに対して2万人にも及ぶ百姓衆が税の免除や減らすことを目的に城下町を占拠し、また商家や藩の重臣達の家を打ちこわししたり、田町会所をおそって書類を焼き捨てました。

 

藩は要求の半分を聞き入れる姿勢をみせかけて時間を稼ぎ、一揆の集団を村に返しました。その後、一揆の指導者を呼び出すと処罰しました。

 

藩主だった内藤氏は譜代大名でしたが、一揆の終結後、幕府から責任を問われ日向国(宮崎県)延岡に移されました。

 

③1686年「嘉助騒動」

嘉助騒動とは、信濃安曇郡中萱村の庄屋の嘉助が主導して起きた全藩一揆のことです。

 

2年も米の不作が続き、百姓の生活がとても苦しい中、年貢の三割増を藩が布告しました。

 

それに対して城下の米屋や御用達商人の家を打ちこわし抗議を行いました。

 

藩は全面譲歩を見せましたが、その後弾圧し、主導者らを処罰しました。

 

一揆の原因を詳しく「農民の階級問題」

 

江戸後期の一揆は身分の低い農民が起こしたものが多くありました。

 

そこで、農民の中にも階級があり、それが一揆にどう繋がっていったのか説明していきたいと思います。

 

①定義

江戸時代の農民は寛文検地以降、本百姓水呑百姓2つに分けられていました。

✔ 本百姓・・・田畑と屋敷を持っていた百姓のこと。

✔ 水呑百姓・・・田畑を持っていないため年貢を払わなくてもいい百姓のこと。

しかし、水呑百姓はその代わりに発言権もないため、身分が低く貧しい百姓のことです。

 

その他にも名主、名主の補佐である組頭、それらを監視する百姓代という村方三役や、本百姓の下で働く名子がいました。

 

 

②分地制限令

農民の土地の分割相続を制限した令です。

 

土地を分割して小さくなると年貢の量も減るため、幕府が1673年に初めて定めました。

 

名主は20石以上、百姓は10石以上でそれより低い人は分割相続を認めないという趣旨でした。

 

その後1713年には田畑の配分は10石高以上、地面一町歩より少なく分割することを禁じました。

 

③実態

実際には、村の制定する株仲間に入れない本百姓もいました。

 

さらに特産品などの商品作物の栽培や、商業資本による活躍によって本百姓の中でも格差がうまれていきました。

 

本百姓の中には水呑百姓に転落する百姓もいました。

 

このことが百姓一揆や村方騒動のきっかけになっていきました。

 

 

一揆の原因を詳しく「村での掟」

 

江戸時代は幕府の収入は米だったので農民はとても大事な存在でした。

 

しかし、農民は一揆などで度々反抗するため、幕府にとっては都合の悪い存在でもありました。

 

そのため、生かさず殺さずさまざまな制限をして管理していたのです。

 

しかし、こうした幕府の政策が農民どうしの連帯感を生み、一揆や騒動を起こす一因になりました。

 

それではについても触れていきたいと思います。

 

①五人組

農民達の間ではさらに五人組という農村の五軒をひとグループとしてまとめ、その中からキリシタンや犯罪者が出たら奉行所に報告する義務を負う監視システムがありました。

 

②村八分

村のルールを破った人に対しては火事と葬式以外は仲間はずれにするという村八分という掟がありました。

 

これにより、例えば一揆を企てているのが報告されたら処罰の対象になったり、全藩一揆を企てているが参加しないなら村八分にするなどお互いを管理していました。

 

③田畑永代売買禁止令

飢饉による百姓の没落を防ぐため、土地を売買することを永遠に禁じた法です。

 

④田畑勝手作りの禁

田んぼや畑に決められた作物以外を栽培するのを禁止にした法です。儲かりそうな作物をつくり、収入増を防ぐために出されました。

 

こうして農民は幕府や藩だけでなく農民どうしで管理し合い、さまざまな制約のなかで生きていました。

 

これらが、一揆や騒動を起こす一因になりました。

 

まとめ

 惣百姓一揆とは農民が藩主や幕府に武力で対抗したこと。

 その中でも村役人が中心になって行ったものを百姓一揆といい、藩全体の農民が団結して行ったものを全藩一揆と言う。

 背景には災害や飢饉があり、年貢が増えたり税が増えました。

 一揆の種類は代表越訴型一揆、惣百姓一揆、世直し一揆がありました。

 農民の中にも階級があり、中には水呑百姓に転落してしまう農民もいた。

 村での掟には様々あり、お互いを監視するシステムや幕府からの決まりがあり、それが農民の不満を高め、一揆や騒動を起こすきっかけになった。

 主な惣百姓一揆の例には武左衛門一揆、磐城平元文一揆、嘉助騒動があり、どれも首謀者は処罰されました。