1914年に起きたオーストリア大公とその妻が暗殺された「サラエボ事件」。

 

当時オーストリア=ハンガリー領であったサラエボで起きた事件のため、この名で呼ばれています。

 

この事件がきっかけでヨーロッパにおいて第一次世界大戦が開戦することになります。

 

今回は『サラエボ事件』について、簡単にわかりやすく解説していきます。

 

サラエボ事件とは?

(暗殺場面を描いた新聞挿絵 出典:Wikipedia)

 

 

サラエボ事件とは、1914年に起きたオーストリア=ハンガリー帝国のオーストリア大公であるフランツ・フェルディナントとその妻であるゾフィーが暗殺された事件となります。

 

 

(オーストリア大公と妻 出典:Wikipedia)

 

 

現在のボスニア・ヘルツェゴビナの首都、サラエボ(当時はオーストリア領)にて事件は起こりました。

 

事件の契機は大セルビア主義のテロ組織によるものでしたが、セルビア王国政府の関与が疑われました。

 

この時代は帝国主義の名のもとに列強国が併合国を支配していましたが、併合国側の人間はフラストレーションをためている状況で、いつ問題が起きてもおかしくありませんでした。

 

事件後、平和的解決が図られましたが交渉は決裂。オーストリア=ハンガリーはセルビアに対して宣戦布告を行う事となります。

 

セルビア側もまたロシアからの支援を基に対抗していく事となりました。

 

ロシアの軍事行動に対し、三国同盟に基づいてオーストリアを支援するためにドイツが介入した事で、ロシア側も三国協商によって協力関係にあったイギリス・フランスを巻き込む事となります。

 

こうして、ヨーロッパ全域での大規模戦争(第一次世界大戦)へと発展していくことになりました。

 

サラエボ事件の背景と原因

(1880年 バルカン半島の民族構成地図 出典:出典:Wikipedia)

 

 

サラエボ事件に至る背景として、オーストリア=ハンガリー帝国セルビア王国の関係性とバルカン半島の情勢を理解しておく必要があります。

 

なおバルカン半島は後述のとおり大国の思惑が複雑に絡み合っていて、ひとたび問題が起きれば戦争へと発展する可能性があった事から「ヨーロッパの火薬庫」とも呼ばれていました。

 

①ベルリン条約制定後のバルカン半島

元々バルカン半島は16世紀頃よりオスマン帝国によって支配されていました。

 

しかし、オスマン帝国に対して住んでいたスラヴ系の民族が反乱を起こします。

 

その反乱を支援する形でロシア帝国が介入し、露土戦争が勃発します。

 

結果ロシアが勝利し、1878年に結ばれたサン・ステファノ条約およびベルリン条約によってセルビアとモンテネグロ、そしてルーマニアの独立が認められました。

 

しかし、ボスニア・ヘルツェゴビナには独立権が認められず、オーストリア=ハンガリー帝国が中立国として占領していく事となりました。なお、ボスニアには数多くのセルビア人が住んでいました。

 

この時点では問題とならず、セルビアを統治していた王家のオブレノヴィッチ家はオーストリア=ハンガリーと良好な関係を築いていました。

 

②セルビア王国とオーストリア=ハンガリー帝国の関係性悪化

セルビア王国とオーストリア=ハンガリー帝国の関係性は、セルビア王国内のクーデターにより大きく変わる事となります。

 

1903年にドラグーティン・ディミトリエビッチによりセルビア王宮が襲撃され、国王であるアレクサンダルと妻が殺害されます。

 

オブレノヴィッチ家による統治が終わり、代わりにカラジョルジェヴィチ家による立憲君主制の統治が始まります。

 

こうして亡命していたペータル1世が即位し、王となります。

 

なお、この反乱を指導したディミトリイェヴィチ大佐はサラエボ事件の暗殺を主導したとされており、1911年に設立されるセルビア民族主義の秘密組織である黒手組の指導者となりました。

 

新王朝は以前に比べセルビア民族主義的な側面が強く、またロシアとの関係を重要視しました。

 

それに伴いオーストリア=ハンガリー帝国との関係は悪化していきました。

 

③セルビア王国の国力増強と反オーストリア=ハンガリー思想

1906年にセルビア王国とオーストリア=ハンガリー帝国の間で豚戦争と呼ばれる貿易摩擦が起こります。

 

一方でオーストリア=ハンガリーはバルカン半島の諸問題を解決させるために1908年にボスニア・ヘルツェゴビア併合を宣言します。

 

セルビア側の政府・国民は強く反発し反オーストリア=ハンガリー思想が強まります。

 

また、セルビアは、セルビア人が多くいるボスニアをオーストリア=ハンガリーにより奪われた事もあり、南方へ勢力を拡大しようとしました。

 

その中でオスマン帝国との間で第一次バルカン戦争とブルガリアとの第二次バルカン戦争を経て、領土を拡大しました。

 

自信をつけたセルビアでは民族主義が高まり、「大セルビア」を目指す民族主義者によって、ボスニア内でもオーストリアからの独立とセルビアに加わる運動が扇動されていく事となりました。

 

また、黒手組などの秘密結社による要人の暗殺未遂も多くみられるようになり、オーストリア皇帝の暗殺計画もありましたが失敗に終わっています。

 

サラエボ事件の内容詳細

(暗殺数分前に撮影された大公夫妻 出典:Wikipedia)

 

 

オーストリア皇帝のフランツ・ヨーゼフ1世は弟の甥である大公フランツ・フェルディナントに対して、1914年6月に行うボスニアでの軍事演習を視察するように命じました。

 

サラエボへの訪問は新設される予定だった国立博物館に立ち会うためでした。

 

①暗殺の実行

1914年6月28日、フェルディナントらはサラエボから自動車に乗って移動しました。

 

サラエボ警察によって警護は行われていましたが、限定的な警備体制だったとされます。

 

暗殺者側は6人いたとされており、待ち構えていました。待ち構えていた2人の暗殺者は行動を起こせず、3人目の暗殺者によって爆弾が投げ込まれました。

 

しかしこの時点では大公の暗殺は失敗し、6台ある車のうちの1台が破壊されるだけにとどまります。

 

残りの5台はスピードを上げて市庁舎へと向かいますが、その時点残っていた暗殺者は何もできない状況でした。

 

大公フェルディナントらは市庁舎にて歓迎式に参加し、予定していた計画を変更して爆弾による負傷者のお見舞いへとサラエボ病院に向かう事になります。

 

そして暗殺者側の一人であるガウリロ・プリンツィプは暗殺の失敗を知り、大公を待ち伏せしていました。

 

ちょうど市庁舎から大公らを乗せた車が発進し、ちょうど曲がり角で道の間違いに気付いたことで停車する形となりました。

 

その場所ちょうどにプリンツィプはおり、大公フェルディナントと妻のゾフィーを乗せた三台目の車が停車していました。

 

このプリンツィプの銃撃によりフェルディナントとゾフィーは殺害されました。ゾフィーはほぼ即死、大公はゾフィーの死後10分後に亡くなりました。

 

 

(暗殺直後の現場の様子 出典:Wikipedia)

 

 

(※なお大公の妻ゾフィーはもともと標的ではなく、同乗していたボスニア総督のポティオレクが狙われていたとされています)

 

②暗殺者の処分

暗殺者全員と計画の援助者はオーストリア=ハンガリー当局によって逮捕されることになりました。

 

事件に対しての裁判として、サラエボ裁判が行われ、罪状は大逆の共謀ということで裁かれることになりました。

 

 

(サラエボ裁判の様子 出典:Wikipedia)

 

 

未成年の被告らは死刑にならないという国内の法律に基づき処分され、実行犯であるプリンツィプも未成年であったため懲役刑となっています。結果、4名の人間が死刑となりました。

 

また、セルビア王国側では実質的な指導者と考えられたディミトリエビッチらの排除のためにセルビア政府が亡命中であったテッサロニキにてテッサロニキ裁判が行われます。

 

この事件が原因というよりもディミトリエビッチとその周囲が政治的な側面から軋轢があったようでした。

 

彼らを関係のない虚偽の罪状で起訴し、死刑を宣告しました。

 

サラエボ事件のその後

(オーストリアがセルビア人を成敗する様子を描いた戯画 出典:Wikipedia

 

 

サラエボ事件後、事件についてオーストリア=ハンガリー帝国とドイツはセルビアに対して、大公暗殺について調査を実施するように勧告を行います。

 

しかし、セルビア側は政府と無関係であると拒否したことで関係はより一層悪化します。

 

①オーストリア最後通牒と第一次世界大戦の開戦

そのサラエボ事件の対応に対し、オーストリア=ハンガリー帝国はセルビア王国政府を批判します。

 

その中で、オーストリア最後通牒を突きつけます。

 

具体的な要求としてセルビアでの反オーストリア的な行為の禁止や、それらを扇動していた将校らの追放などの10箇条があげられていました。

 

セルビア側は10箇条の中で8箇条までは同意していましたが、一部保留していました。

 

その態度を見て、オーストリア=ハンガリーはセルビアに対して宣戦布告を行い、第一次世界大戦が開戦する事となりました。

 

 

(※なおこのオーストリア最後通牒は受け入れる事が到底困難な内容で、オーストリア=ハンガリー側がセルビアに侵攻するための理由をつけるためのものだったといわれています)

 

②第一次世界大戦への列強の参加とその後

オーストリア=ハンガリーとセルビアによって第一次世界大戦が勃発しましたが、諸外国もその流れに追随して欧州全体を巻き込む大規模な戦争へと発展します。

 

まずオーストリア=ハンガリーはもともと三国同盟をドイツとイタリアとの間で結んでいたため、有事の際のドイツによる支援を確約していました。

 

 

一方でセルビア側は同盟などを結んでいた訳ではありませんでしたが、ロシアと密接な関係性を構築していたため、ロシア側の支援が得られる状況にしていました。

 

その当時ロシアは三国協商をフランス・イギリスと結んでいた事もあり、参戦に伴って二国も戦争へと参加することになっていきました。

 

 

なお、第一次世界大戦ではセルビア王国は一時的に滅亡の危機に追い込まれましたが、連合国側に米国が参戦した事もあって最後は戦勝国となり、国は存続することになります。

 

オーストリアから分離されたクロアチア、スロベニア、ボスニア・ヘルツェゴビナの三地域と合同してユーゴスラビアの母体となる王国を形成しました。

 

一方、オーストリア=ハンガリー帝国は敗戦国となり帝国は解体される事となりました。

 

まとめ

 サラエボ事件はオーストリア大公と妻を暗殺した事件である。

 元々バルカン半島は列強の様々な思惑から一度バランスが崩れれば戦争につながる可能性があった。

 サラエボ事件以前よりセルビアとオーストリア=ハンガリー帝国の関係が悪かった。

 セルビアやセルビア人の多いボスニアでは民族主義的運動が盛んであった。

 オーストリアは最後通牒を用いて国交断絶をし、セルビアに攻め込んだため第一次世界大戦がはじまった。

 第一次世界大戦の結果、セルビアは領土を拡大したがオーストリア=ハンガリー帝国は帝国が解体されることになった。

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