【上海事変とは】簡単にわかりやすく解説!!きっかけや経過・結果・その後など

 

長江河口の南岸に位置する、中国最大の商工業都市・上海。

 

この地では1930年代に2度、日中両軍が衝突しました。いわゆる「上海事変」と呼ばれる事件です。

 

今回は、『上海事変』について簡単にわかりやすく解説していきます。

 

上海事変とは?

(1930年代の上海市最大の繁華街『南京路』 出典:Wikipedia)

 

上海事変とは、1930年代に2度発生した日中両軍の衝突事件のことです。

 

最初に起こった第一次上海事変は、1932年に日本軍部が中国人を買収し、日蓮宗の日本人托鉢僧を襲わせたことで始まった「中国軍との衝突事件」です。

 

前年に起こった満州事変に対する国際社会の注目をそらし、中国全土の抗日運動を弾圧する狙いがありました。

 

二つ目の第二次上海事変は、1937年7月の日中戦争勃発の翌月、北京と天津を陥落させた日本軍が南京国民政府を降伏させるために上海を制圧した事件です。

 

第一次上海事変について詳しく解説!

(第一次上海事変「戦闘に加わる中国兵」 出典:Wikipedia)

第一次上海事変の背景

第一次上海事変の背景には、1931年に始まった満州事変に対する国際社会の非難と中国全土における抗日運動に対処しなければならないという事情がありました。

 

①満州事変の発生

日露戦争以降、日本は主に南満州鉄道株式会社(満鉄)の活動を通して、中国東北部の満州への進出を強めていました。

 

「満蒙は日本の生命線」と主張する当時の日本にとっては、この進出は今後の国防戦略を左右するものでした。

 

こうした状況を受けて、関東軍の内部では高級参謀・板垣征四郎と作戦主任参謀・石原莞爾らが中心となり、秘かに満蒙領有計画が立案されていました。

 

そして、1931年9月18日夜10時半、ついに関東軍の策謀で、奉天郊外・柳条湖の満鉄線路が爆破される事件(柳条湖事件)が起こりました。

 

関東軍はただちにこれを中国の張学良らの工作であるとして、張学良軍の宿営地と奉天城への攻撃を開始します。すぐに奉天市をはじめとする満鉄沿線の主要都市を占拠しました。

 

これに対して、日本政府としては、柳条湖事件の発生直後から、若槻礼次郎内閣が「不拡大方針」をとっていましたが、関東軍はこれを無視して独断で軍事行動を進めました。

 

事態があまりに拡大したため、日本政府は関東軍の独断専行を追認するしかありませんでした。

 

関東軍は1931年中にほとんど無抵抗の中国軍を掃討し、満州のほぼ全域を占領しました。

 

そして、ついに1932年3月、日本の傀儡国家である「満州国」が建国されました。

 

柳条湖事件から満州国建国へと至る、このような一連の出来事を「満州事変」と呼びます。

 

 

②国際社会の非難

1931年9月の柳条湖事件の発生直後、中国は日本の侵略行為を国際連盟に提訴しました。

 

これを受けて、国際連盟理事会は現地調査のため、リットン調査団を派遣することになります。

 

翌1932年1月には、国際連盟理事会で、イギリス、アメリカ、フランス、ドイツ、イタリアの各国からリットン調査団の委員が任命され、2月には日本・中国・満州の現地調査が行われました。

 

この調査結果は9月4日に報告書としてまとめられ、日中両国と国際連盟諸国に通達されました。

 

その報告書では、柳条湖事件に対する日本の軍事行動は、正当な自衛措置として容認できず、満州国には中国の宗主権の下で自治政府を設立すべきであるとされました。

 

特に、イギリスやアメリカをはじめとする中国に権益をもつ列強諸国は、自国の権益を守るという理由もあり、日本の軍事行動を厳しく非難しました。

 

日本はこの調査結果に反発し、最終的には1933年に国際連盟を脱退します。

 

こうして日本は国際社会から孤立することになりました。

 

③中国全土で広がる抗日運動

国際社会の非難の高まりとともに、中国全土で満州事変に反発する抗日運動が起こりました。

 

特に、上海での抗日運動は激しく、資本家・知識人・労働者など、さまざまな社会階層からなる抗日運動組織・抗日救国会が設立されました。

 

こうした中で、抗日運動の性格も大きく変化します。

 

従来行われてきた日本製品の不買運動(日貨排斥)を中心とする経済的な闘争から、国交断絶・武器支給・対日宣戦布告を政府に迫る政治的な闘争へと転換しました。

 

第一次上海事変の内容

1932年1月に始まった第一次上海事変は、1931年9月の柳条湖事件から1932年3月の満州国建国までの間に起こった事件です。

 

ちょうど国際連盟がリットン調査団を組織し、現地調査を始めようとしていた頃でした。

 

①事件の発端

柳条湖事件以来、満州の主要都市を攻略し、満州国建国を目指していた関東軍は国際社会の注目を満州事変からそらし、中国全土に広がっていた抗日運動を弾圧するため、抗日運動の拠点であった上海で謀略工作を行うことを決めます。

 

その発端となったのは、参謀本部付少佐の田中隆吉らが、関東軍参謀・板垣征四郎らの指示を受けて中国人を買収し、1932年1月18日に日蓮宗の日本人托鉢僧を狙撃させたでした。

 

これにより、上海の情勢は一気に悪化しました。

 

この事件自体は、中国側が日本の抗議と要求を受け入れたことで沈静化しましたが、それにもかかわらず、日本海軍は上海市内の日本人居留地(租界)に陸戦隊を配備し、中国側を刺激しました。

 

その結果、1月28日、ついに日本海軍陸戦隊と中国十九路軍との間で軍事衝突が起こってしまいます。

 

②事件の推移

衝突発生当初、日本側は海軍陸戦隊のみで十九路軍を圧倒できると考えていましたが、中国軍の中でも特に抗日意識の強い十九路軍は上海市街や北西郊外の地の利を生かして、陸戦隊を苦しめました。

 

これを受けて、日本政府が2月、陸軍3個師団を動員したため、戦闘は拡大しました。

 

しかし、上海には欧米列強も権益をもっているため、上海での戦闘があまりに長引くと欧米列強が介入してくるおそれがありました。

 

事実、イギリス、アメリカ、フランスの3カ国は休戦を勧告し、日本側に圧力を加えてきました。

 

その後、日本は3月1日、上海市内の軍事要衝・大場鎮を陥落させました。3日には十九路軍が退却したため、戦闘が中止されました。

 

これは、欧米列強が一同にそろう国際連盟総会の直前の出来事でした。

 

こうして日本は欧米列強の介入を受けることなく、5月に中国側と停戦協定を結び、上海から日本軍を撤退させました。

 

第一次上海事変の結果

第一次上海事変は、もともと国際社会の目を満州国からそらすために引き起こされた謀略です。

 

1932年1月の発生から5月の停戦協定締結までの間の3月には、満州国建国が実現したため、その意味ではこの謀略は成功したと言えます。

 

しかし、第一次上海事変は予想以上に戦闘が激化したため、中国の抗日意識がますます強まるきっかけを与えてしまいました。

 

また、欧米列強も日本に対する警戒心を強めたため、日本の国際社会からの孤立が進みました。

 

第二次上海事変について詳しく解説!

A National Revolutionary Army machine gun nest in Shanghai

(第一次上海事変「中華民国国民革命軍の機関銃陣地」 出典:Wikipedia)

第二次上海事変の背景

第二次上海事変は、1937年7月に発生した盧溝橋事件の翌月に起こった事件です。

 

日中戦争の初期の軍事衝突の一つに当たります。

 

①日中戦争の発端

日中戦争の発端となったのは、盧溝橋事件と呼ばれる軍事衝突事件です。

 

1937年7月7日夜、北京郊外の盧溝橋付近で夜間演習をしていた華北駐屯日本軍の中隊に向けて、十数発の射撃が行われたことをきっかけに翌8日未明から日中両軍の戦闘が起こりました。

 

中国共産党は8日華北の防衛と全人民の抗戦を求めた電報を送り、共産党と対立していた国民政府も10日夜日本に抗議しました。

 

一方、現地では9日に停戦の合意がなされたものの、10日夜に戦闘が再開され、中国の多数の民衆が日本軍によって殺傷されました。

 

その後、11日夜に現地で停戦協定が成立しました。

 

②日中戦争の初期の展開

ところが、停戦協定が結ばれる2時間前、当初は不拡大方針をとっていた1次近衛文麿内閣は、中国軍との全面戦争になることを予期して、内地3個師団の動員を決定し、「華北派兵声明」を発表しています。

 

それに呼応するように、その後は戦線が拡大していきました。

 

28日には日本軍が北京・天津への総攻撃を開始し、ついには陥落させました。

 

第二次上海事変の内容

日本軍は北京と天津を陥落させたものの、中国軍の激しい抵抗に遭い、膠着状態から抜け出せずにいました。

 

そうした中、日本海軍陸戦隊の中尉・大山勇夫らが射殺された事件を口実にして、日本海軍は1937年8月13日、南京国民政府を降伏させるため、上海の中国軍に対して攻撃を開始しました。

 

これが第二次上海事変の始まりです。

 

日本海軍は中国軍の激しい抵抗により苦戦に陥りましたが、同8月中に日本陸軍2個師団が派遣されたことで、全面戦争へと展開させていきました。

 

そして、11月5日、数万の大軍を杭州湾に上陸させ、上海を制圧しました。

 

第二次上海事変の結果

1937年11月に上海を占領した日本軍は、撤退する中国軍を追撃して、次に南京へと侵攻することを決めます。

 

そうして翌12月には、日本軍は南京へと展開し、激しい戦闘の末、南京を陥落させます。

 

この戦闘の中では、南京事件(南京大虐殺)と呼ばれる大量虐殺事件が起こったとされています。

 

このように、日中戦争の初期は、一見すると日本軍の快進撃であったかのように見えます。

 

しかし、日本軍は北京、天津、上海、南京の各都市を点々と制圧したにすぎず、長期戦に備えた体制を整えていたわけではありませんでした。

 

そのため、南京陥落後も中国軍の激しい抵抗に遭い続け、日中戦争は次第に泥沼化していきました。

 

まとめ

 上海事変とは、1930年代に2度発生した日中両軍の衝突事件のこと。

 第一次上海事変(1932年)は、日本軍部の策謀により、買収された中国人が日蓮宗の日本人托鉢僧を狙撃したことで始まった、日本海軍陸戦隊と中国十九路軍との衝突事件。

 日本側には、1931年に発生した満州事変に対する国際社会の注目をそらし、中国全土の抗日運動を弾圧する狙いがあった。

 第二次上海事変(1937年)は、日中戦争勃発の翌月、北京と天津を陥落させた日本軍が、南京国民政府を降伏させるために上海を制圧した事件。

 これにより、日本と中国の全面戦争に発展した。