民撰議院設立建白書は、特定の藩を出身とする一部の政治家に独占されていた当時の政治を批判し、国会を開き民意を政治に反映させることを提言した画期的な建白書です。

 

日本で最初の国会が開かれたのは1890年(明治23年)のことですが、国会開設までの道のりは長く、その発端となったのが、1874年(明治7年)に提出された民撰議院設立建白書でした。

 

今回はそんな『民撰議院設立建白書(みんせんぎいんせつりつけんぱくしょ)が提出される経緯やその後の影響などついて、簡単にわかりやすく解説していきます。

 

民撰議院設立建白書とは?

(民撰議院設立建白書「序文」 出典:Wikipedia

 

民撰議院設立建白書は、1874(明治7)年板垣退助・後藤象二郎・副島種臣らが、国会の設立をもとめて明治政府に提出した文書のことです。

 

明治維新後、幕府にかわって明治政府による新たな政治体制が生れました。

 

しかし政府はしだいに薩摩藩・長州藩出身者による独裁的な藩閥政治の性格を強めていきます。征韓論・明治六年の政変などいくつかの事件を通して、そうした政治への不満が顕在化しはじめていました。

 

そうした中、政府に対し、薩長以外の出身者たちが異を唱えます。

 

板垣退助・後藤象二郎・副島種臣らは、国民によって選ばれた議員による国会(民撰議院)をつくることで、民主的な政治を目指そうとしました。

 

国会の設立を提案するために政府に提出されたのが、民撰議院設立建白書です。

 

民撰議院設立建白書は、その後の自由民権運動の盛り上がりを導き、国会開設の機運を高めることになりました。

 

民撰議院設立建白書が出された背景

 

民撰議院設立建白書が提出された背景にあるのは、一部の官僚による藩閥政治・有司専制の横行に対する不満の高まりです。

 

特にそうした不満を高めた出来事として重要なのが、征韓論明治六年の政変のふたつです。

 

征韓論、明治六年の政変から民撰議院設立建白書提出までの流れを整理していきましょう。

 

①征韓論の高まり

征韓論とは、西郷隆盛・板垣退助・江藤新平・後藤象二郎・副島種臣らが唱えた、武力によって朝鮮を開国させようとする主張です。

 

朝鮮との外交問題は幕末から議論を呼んでおり、明治維新以後も政府にとって重要な課題となっていました。

 

岩倉具視ら政府の主要人物が岩倉使節団として海外視察に赴いていた1873年(明治6年)に、日本に残っていた西郷・板垣ら留守政府は、朝鮮に対して兵を派遣する閣議決定をします。

 

民撰議院設立建白書の主要人物である板垣・後藤・副島は、もともとこうした征韓論を唱えた中心人物でもありました。

 

 

②明治六年の政変

西郷・板垣ら留守政府は朝鮮への派兵を一度閣議決定しましたが、1873年(明治6年9月に帰国した岩倉具視・大久保利通・木戸孝允らは征韓論に反対を示します。

 

最終的に、征韓論に反対する岩倉らの意見が明治天皇に認められ、朝鮮への派兵は中止になりました。

 

これに憤慨した西郷・板垣・後藤・江藤・副島の5人は辞表を提出し下野します。

 

同時に、政府に不満を持っていた多くの官僚・軍人が一斉に職を辞しました。この出来事を明治六年の政変と呼びます。

 

 

③愛国公党の結成

明治六年の政変によって政府を離れた面々は、政府に不満を持つ人々と結びついて様々な動きを起こしました。

 

のちに西郷隆盛が西南戦争で敗れるのもその一環です。

 

 

ただし、西南戦争は民撰議院設立建白書よりもあとの1877年(明治10年)なので、時系列をおさえましょう。

 

政府を辞した板垣退助・後藤新平・副島種臣の三人は、薩長出身者が力を持つ政府に異をとなえるべく、1874年(明治7年)に愛国公党という政治結社を立ち上げます。

 

愛国公党は、すべての人は天に与えられた人権を持っているという天賦人権論の考え方に基づき、民撰議院の設立を政府に要求することを目的に活動しました。

 

 

民撰議院設立建白書の内容詳細

(板垣退助 出典:Wikipedia

①民撰議院設立建白書の年代と中心人物

民撰議院設立建白書は、愛国公党を結成した板垣退助・後藤象二郎・副島種臣ら全8名によって1874年(明治7年)に提出されました。

 

板垣らは、愛国公党が基本的な立場とした天賦人権論の観点に立って、藩閥政治の批判と国会(民撰議院)設立の要求を、この建白書を通して行いました。

 

②藩閥政治の批判

民撰議院設立建白書が目指したのは、第一に、藩閥政治・有司専制の打破でした。

 

当時の明治政府は薩摩藩と長州藩出身の政治家の影響力が強く、板垣たちを政府から追いやった明治六年の政変も、薩摩出身の大久保利通などが強引に征韓論をおさえつけたことへの反発から生じた事態でした。

 

建白書本文には、「政権の帰する所を察するに(中略)独り有司に帰す」という一文があります。

 

「有司」とは上級官僚のことを指す言葉で、つまりこの建白書は「政権が一部の上級官僚に独占されている」という政府の内情を批判しているのです。

 

③「公議」の尊重と民撰議院設立の提案

民撰議院設立建白書という名称にある「民撰議院」とは、国民に選出された者による議院、すなわち国会のことを指します。

 

明治維新以来、明治政府では、戊辰戦争で活躍した特定の藩の人物が政府に登用され、政治を担っていました。

 

板垣たちはそのような状況を批判して、国の政治を担う人物を国民が自ら選ぶことのできる制度をつくろうとしたのです。

 

建白書では、「天下の公議を張るは、民撰議院を立つるに在るのみ」と書かれています。

 

この「天下の公議」というのが、国民の世論のことであり、その尊重のためには「民撰議院」をつくることが不可欠なのだと、板垣たちはうったえました。

 

ただし、板垣たちが重視した「公議」は、藩閥政治に不満を持つ士族を中心とする、国民の中でもごく一部の層のものに限られている面もありました。

 

より広く国民全体の政治参加を求める動きは、民撰議院設立建白書ののちの、自由民権運動の高まりを待たねばならなかったといえます。

 

 

民撰議院設立建白書の影響

①自由民権運動の高まり

民撰議院設立建白書は、結局のところ政府に受け容れられることのないまま終わりました。

 

しかし、この建白書を発端として、国会開設と国民の政治参加を求める自由民権運動が全国各地で起こっていくことになります。

 

板垣退助は故郷の土佐で立志社という政治結社をつくり、立志社を母体にとして愛国社という全国組織を結成しました。

 

全国の政治結社をまとめた愛国社は、全国的な国会開設運動の中心となりました。

 

 

②国会の開設へ

愛国社の結成をうけ、政府はついに1875年(明治8年)に「漸次立憲政体樹立の詔」を出します。

 

「漸次」とは「だんだん」ということで、憲法に基づく政治体制をこれからだんだん整えていきますという宣言です。

 

さらに1881年(明治14年)には「国会開設の勅諭」が出され、1890(明治23)年までの国会開設が約束されました。

 

 

その後、政府は自由民権運動を弾圧しつつも、1889(明治22)年に大日本帝国憲法を発布し、翌1890(明治23)年には約束通り第1回帝国議会が開催されました。

 

 

まとめ

 民撰議院設立建白書とは、1874(明治7)年に板垣退助・後藤象二郎・副島種臣らが政府に提出した、国会開設を求める文書のこと。

 征韓論と明治六年の政変という一連の出来事の中で、薩長の藩閥政治への不満が高まり、愛国公党を結成した板垣退助らが民撰議院設立建白書を提出することになった。

 民撰議院設立建白書は、藩閥政府(有司専制)を批判し、「公議」(世論)に基づく政治を行うために国会をつくることを政府に訴えた。

 民撰議院設立建白書を発端として、自由民権運動が活発化し、1890(明治23)年には初の国会(第1回帝国議会)が開かれることになった。

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