貨幣経済が発展するにつれて、銭も良し悪しが出てきます。

 

その混乱に対して出されたのが撰銭令です。最初に発令したのは室町幕府ですが、後に戦国大名や織田信長も発令します。

 

今回はそんな『撰銭令』について、発令するに至った経緯、そもそも撰銭とはなんなのかなどもわかりやすく解説していきます。

 

撰銭令とは

(室町末期に作られた永楽通宝のびた銭 出典:Wikipedia

 

 

まず、撰銭(えりぜに)とは商取引に際し、悪銭を嫌い良銭を選んだことです。

 

当時市場には良質の輸入銭のほか、私鋳銭や焼銭・破銭・びた銭などの粗悪銭が混用したために生じた現象です。

 

これによる経済的混乱に対する規制措置として室町時代に発令されたのが撰銭令です。

 

良銭の基準や酒類、貨幣間の交換比率などを定め、撰銭を制限したものです。

 

間違いやすいのが、撰銭令が撰銭を制限するものだということです。撰銭をしろといっているわけではありません。

 

こういってもなんだかピンときませんね。銭が流通するようになった経緯とともに、時代に沿って説明していきます。

 

撰銭令が発令されるまでの背景

①江戸時代以前に使われた銭はほとんどが日本製ではない!?

鎌倉時代の後期に年貢の代銭納(米ではなく銭で年貢を納めること)が広まったのは、地方でも、品物と銭を交換するのが簡単になったからです。

 

つまり、日本全国に大量の銭が流通していたわけです。ところがこの時代、日本で銭はつくられていません。

 

どういうことかというと、朝廷は708年の和同開珎をはじめとして、958年までのあいだに12種類の銭を発行。しかしそれ以後は、江戸幕府が1636年に寛永通宝を発行するまで、およそ700年の間、日本で銭が発行されることはありませんでした。

 

では、大量の銭はどのようにして用意されたのでしょうか。

 

②宋銭の輸入

(北宋銭 出典:Wikipedia

 

 

朝廷が発行した銭は、10世紀末にはほとんど使われなくなります。

 

こののち、交換の手段としてつかわれたのは、和同開珎の発行以前から利用されていた米や絹・麻布でした。

 

土地を売買するために作られた書類を見ると、この頃には米や布を使って土地が売買されていたことが分かります。

 

荘園の年貢に米や繊維製品が多いのは、そこで生産されていたという以上に、交換の手段としてよくつかわれるという理由があったのです。

 

日本で再び銭が使われるようになったのは、平安時代末期のことです、1179年、「銭の病」という病気が流行しました。

 

銭くらいの大きさの湿疹ができる病気だったと考えられます。

 

病名に使われるぐらい、銭が人々にとって身近なものになっていたことが分かります。

 

このころ使われた銭は、200年以上前に朝廷が発行したものではなく、中国(宋)から輸入されたものでした。

 

朝廷は宋銭の使用を禁止しましたが、効果は上がらず、利用が拡大しました。結局、朝廷は13世紀初め頃には禁止を諦めたようです。

 

③大量の中国銭とびた銭

鎌倉時代を通じて、中国から銭の輸入が進みます。

 

特に1270年代には元が紙幣を通用させようとしたため、中国で使われなくなった宋銭が、ベトナムや日本に大量に流れ込みました。

 

そして、鎌倉時代後期には、年貢の代銭納ができるくらいたくさんの銭が全国で流通するようになったのです。

 

1323年に博多へと向かう航海中に沈没した船が、韓国の新安沖で発見されています。

 

この船1隻だけでも800万枚の銭が積み込まれていたのですから、平安時代末期から室町時代まで、日本に輸入された中国銭は数えきれないほどだったでしょう。

 

明との勘合貿易でも、銭が輸入されました。代表的なのは永楽通宝です。

 

(永楽通宝 出典:Wikipedia

 

 

室町時代、日本で流通した銭は、宋銭が多数を占めますが、唐銭・元銭そして明銭も少なくありません。

 

実は、日本でつくった銭もありました。もちろん朝廷や幕府が発行したものではありません。

 

中国銭を模造したものや、何の文字も鋳こまれていない無文銭など、民間でつくられた偽造銭でした。このように民間で私的につくられた銭を私鋳銭といいます。

 

これら多種多様な銭は、とくに区別されることなく、どれでも1枚1文として通用していました。

 

④撰銭と撰銭令

ところが、質の悪い銭が増えすぎたためか、1480年代には撰銭と呼ばれる行為が行われるようになりました。

 

取引のときに銭を受け取る側が、質の悪い銭を拒否し、質の良い銭だけを受け取ろうとしたのです。

 

良い銭の基準とされたのは、もっとも数の多い宋銭でした。私鋳銭は悪い銭で、こういった質の悪い銭はびた銭と呼ばれました。

 

新しい明銭も、きれいすぎて偽造銭と勘違いされやすいためが、びた銭に分類されたようです。

 

他にも焼銭(焼け焦げた銭)、破銭(われぜに、欠けてしまった銭)は粗悪銭として嫌われました。

 

撰銭が行き過ぎると、売買に大変な手間がかかるので、人々の要請を受けた幕府や大名は、撰銭を制限する法令を出しました。これが撰銭令です。

 

撰銭令とは、撰銭をしろという命令ではなく、撰銭してもよい基準を示し、無制限な撰銭をやめさせる法令なのです。

 

撰銭令の内容と目的

 

 

具体的な内容としては、悪銭と良銭の混入比率を決めたり、一定の悪銭の流通を禁止するかわりに、それ以外の貨幣の流通を強制するというものが多かったようです。

 

通説では、円滑な流通のために撰銭令がだされたということになっています。

 

しかし、専門家によると撰銭令は、貨幣流通量の増大をはかるためのものであると同時に、日明貿易の利益を財源とした幕府にとっては、唐銭の価値の引上げによる利益拡大のためのものでもあったとしています。

 

撰銭令は室町幕府だけでなく、戦国大名や織田信長も発令したものなので、それぞれで細かい違いがあります。気になった人は各自で調べてみてくださいね。

 

撰銭が行われなくなったのは?

撰銭令はたびたび発令されましたが、撰銭が完全になくなることはありませんでした。

 

近世になり江戸幕府が永楽通宝の使用を禁止し、特定の悪銭を除く銭の同価値使用を強制した後も、撰銭は衰えず、幕府は1674(延宝2)年まで数回にわたり撰銭令を出しています。

 

その効力は十分ではなかったが、寛永通宝が需要を満たすに至って、ようやく撰銭は行われなくなったとされています。

 

(寛永3年 寛永通寳 出典:Wikipedia

 

まとめ

・撰銭とは商取引に際し、悪銭を嫌い良銭を選んだこと。

・撰銭令は撰銭を推奨するものではなく、制限するもの。

・撰銭令は室町幕府だけでなく、戦国大名たちも発令した。

・江戸時代になり、寛永通宝が需要を満たすようになってから、ようやく撰銭は行われなくなった。




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