【第二次護憲運動とは】わかりやすく解説!!憲政会の「加藤高明」が首相に!

 

名作バスケ漫画スラムダンクの終盤、山王工業との死闘の中で、後半に大きく開いた点差を見ながら、宮城リョータは考えます。

 

「…絶対にもう一度流れはウチにくる!」

 

点差は開いていたものの、実力的にはそこまでの差はないと見切った彼は「流れは自分たちで持ってくるもんだろうよ!!」と叫んで強豪山王に切り込んでゆくのです。

  

第二次護憲運動もそうでした。

 

今回は、そんな第二次護憲運動についてわかりやすく解説していきます。

 

第二次護憲運動とは

(加藤高明 出典:Wikipedia

 

 

選挙によって選ばれた議会を重視するように求めた第一次護憲運動は、激しいデモや演説会で桂内閣を退陣させたものの政党内閣や普通選挙は実現しませんでした。

 

平民宰相ともてはやされた原敬もまた普通選挙の実現には後ろ向きで、普通選挙について演説したりすることも取り締まりの対象になっていたのです。

 

しかし、普通選挙を実現させたいという国民の声は日増しに大きくなってきました。

 

この流れにのって、1924年(大正13年)護憲三派は「憲政擁護、普選断行、貴族院改革」をスローガンに清浦奎吾内閣を攻撃し、選挙に圧勝しました。

 

これが第二次護憲運動です。

 

もう一度流れはウチ(護憲側)に来たわけです。

 

第一次に比べるとイヤにあっさりしていますが、この運動の結果、護憲三派は選挙に圧勝し、第一党であった憲政会の加藤高明が首相となって普通選挙法が公布され、この後8年間は憲政の常道として政党内閣が続くのです。

 

 

第二次護憲運動の舞台 

第二次護憲運動の舞台は帝国議会です。

 

・憲政会の加藤高明

・立憲政友会の高橋是清

・革新倶楽部の犬養毅

 

この3つの勢力が手を組み、貴族院をバックに持つ清浦奎吾内閣を攻撃したのです。

 

護憲三派に対する国民大衆の支持はあったものの、第一次護憲運動のような激しい民衆運動は起きませんでした。

 

 

第二次護憲運動の背景

 

 

関東大震災の起きた1923年の年末、摂政宮(のちの昭和天皇)が自称無政府主義者の青年によって襲撃されるという事件が起きました(虎の門事件)。

 

この事件の責任を取って山本権兵衛内閣が総辞職すると、清浦奎吾が首相となって内閣を組閣しました。

 

清浦内閣は閣僚のほとんどを貴族院から選び、議会を軽視する超然内閣です。

 

 

このため、国民の評判は悪く、人気がありませんでした。

 

立憲政友会ははじめこの清浦内閣を支持していたのですが、のちに清浦内閣を支持する人達だけが抜けて政友本党をつくり、残った人たちは内閣に反対する側に回りました。

 

①流れを見誤る

清浦内閣は護憲三派の攻撃に対して議会の解散で対抗しました。

 

選挙に打って出れば自分を支持する政友本党が勝てるだろうと考えていたようです。

 

しかし、結果は護憲三派の圧勝に終わりました。

 

このころ普通選挙を求める国民の声が大きくなっており、政府も無視できないレベルになっていました。

 

護憲三派の立憲政友会も憲政会も普通選挙には積極的に賛成していたわけではなかったのですが(犬養毅の国民党は賛成)、無視できない国民の声を取り込んで普通選挙法を成立させました。

 

②護憲とは?

護憲とは「憲法をまもること」ですが、大正時代の護憲は、意味あいが今と違っています。

 

大正時代の「護憲」は、「立政治をること」で、天皇と貴族によるお上の政治ではなくて、国民の声を反映した議会や憲法などの法律を守った政治をしていこう、という意味です。

 

エラい人が法律を守るなんて当たり前、と思っていませんか?

 

昔も今も、えらくなったら法律を守らなくていい!自分が法律だ!という専制政治、独裁政治があるんです。

 

こうではなくて、みんなで法律を決めて、その法律をみんなで守っていくのが立憲政治です。

 

天皇という絶対権力がある明治憲法下では天皇の権力と護憲のバランスがむずかしく、様々な問題が起こっています(共和演説事件、統帥権干犯問題など)

 

③普通選挙とは?

 

 

ある一定の年齢以上の国民であれば全員に選挙権を与える、これが普通選挙です。

 

現代の日本では選挙権は男女とも18歳以上で与えられ、自分の意見を政治に反映できます。

 

生活保護を受けていても、病気であっても、海外に住んでいても、過去に犯罪を犯していても(刑期が終われば)、投票に行けるのです。

 

でも、第二次世界大戦の前は違います。

 

④制限選挙はセレブ男子だけ!

明治に始まった帝国議会は高額の税金を納める25歳以上の男子に限って選挙権を与えていました。

 

初期の有権者は全人口の1.1%しかいない、直接国税15円以上のセレブの男性に限って政治に参加させていたのです。

 

 

納税額は段階的に引き下げられて1919年の原敬内閣の時には人口の5.5%、直接国税3円以上の男性になりました。

 

クラスで一番、二番のお金持ちが投票できるかんじですが、大多数に選挙権がない状態は続いています。

 

⑤セレブじゃなくても投票したい!

普通選挙を求める運動は、第一次世界大戦後、1919年のパリ講和会議米騒動をきっかけに再燃しました。

 

平民宰相原敬が普通選挙を実現させてくれる!という期待は大きかったのですが、「民衆の力に押されて普選を実現させると今後の政治に悪影響をあたえる」と考えた原は1920年に議会を解散させて選挙に圧勝し(選挙に介入した)普選法を否決したのでした。

 

その後も普通選挙を求める民衆の声は高まるばかりで、この民衆の声を背景に第二次護憲運動は展開しました。

 

 

普通選挙法と治安維持法

 

1925年にようやく25歳以上の男子全員に選挙権を与える普通選挙法が成立しましたが、この法律は治安維持法とセットになっていました

 

治安維持法とは、「今の政治のしくみをかえようとすること」を厳しくとりしまる法律です。

 

 

1922年にロシア革命によってソ連が成立したのは全世界にとって衝撃でした。

 

これまでとは全く違った社会形態と私有財産の否定は、お金持ちを優遇する政策をとっていた国々にとって見過ごせないものでした。

 

日本でもロシア革命に勇気を得て広がりつつあった労働運動、農民運動などの社会主義と結びついた運動を取り締まるため治安維持法が制定されました。

 

政権を取った加藤高明内閣は普通選挙というアメと治安維持法というムチでもって国民を管理していこうとしたのです。

 

まとめ

・1924年に起きた第二次護憲運動は清浦内閣に反対し、再び政党内閣に戻そうという政治の動き。

・運動を率いたのは憲政会、政友会、革新倶楽部の護憲三派

・スローガンは「憲政擁護、普選断行、貴族院改革」

・選挙に圧勝して普選を実現した。

・運動はあまり民衆に広がらなかった。