朱子学と間違えられやすい陽明学。

 

どちらも儒学の教えをもとにした中国発祥の学問でありながら、陽明学は朱子学へ批判的。

 

関係を例えるなら、同じ師匠に教えてもらった同門の“兄弟子”のやり方をライバル心むき出しで真っ向から批判する“弟弟子”といったところ。

 

今回は江戸時代に広まり、朱子学と混同しがちな『陽明学』について簡単にわかりやすく解説していきます。

 

陽明学とは

(王陽明 出典:Wikipedia

 

 

陽明学とは、16世紀前半の中国、明の時代に王陽明(おうようめい)が始めた学問のことです。

 

朱子学と同じく、儒学をルーツとしています。

 

しかし、朱子学に対して、『朱子学って、頭で考えるだけで、行動力がないんじゃない?』と批判して登場したのが陽明学でした。

 

知識を得ることを第一に考える朱子学と違い、陽明学は、知識だけでなくそれを実践する行動力も必要だと考えました。

 

陽明学の内容・朱子学との違い

①陽明学のライバル朱子学とは?

陽明学を説明する上で朱子学はぜったいはずせないので、まず、朱子学について簡単に触れておきます。

 

同じ儒学をルーツにもち、陽明学のライバル的存在ともいえる朱子学は、陽明学より300年ちかく前の12世紀後半南宋朱熹(しゅき)によって始まりました。

 

 

(朱熹 出典:Wikipedia

 

 

朱子学の特徴を簡単に言うと、理論的で、身分の上下関係や礼儀を重んじたこと

 

日本に伝わったのは鎌倉時代~室町時代。その当時は臨済宗のお坊さんたちが学んでいました。

 

そして、江戸時代になると、5代将軍徳川綱吉寛政の改革松平定信は武士やその子どもなどが朱子学を学ぶことを奨励し、発展に力を注ぎました。

 

 

その理由は、身分の上下関係を重んじる朱子学が、幕藩体制の秩序を維持するのに利用しやすかったからです。

 

つまり、朱子学の「上の命令は絶対、下の者は従うのがあたりまえ」という考え方は、上の立場の人間からしたら、非常に好都合だったわけです。

 

逆に、幕府にとって扱いづらい存在が陽明学でした。

 

実践力を伴う陽明学

 

朱子学が理論的なら、陽明学は実践的

 

陽明学が掲げる代表的なテーマのひとつは「知行合一(ちこうごういつ)」です。

 

ある日、王陽明は弟子から「知行合一とは?」と問われると、こう答えました。

 

知って行なわざるは、未だこれ知らざるなり」と。

 

その意味は、知識があっても行動が伴なわなければその知識は無駄。知識と行動は一体。真の知は実践を伴うべし!学んだことは実践すべし!ということです。

 

また、陽明学は実践力があるだけでなく、正義感が強く、政治を批判する傾向の人物に好まれたため、幕府は陽明学が広がり、批判勢力になるのを恐れ、警戒していました。

 

実際、松平定信は、1790年、寛政の改革として、朱子学以外の学問を禁じる「寛政異学の禁」を出し、陽明学を排除しました。

 

 

その一方で、朱子学は、幕府公認の学問とし、役人の登用試験も朱子学に限られたほどでした。

 

その朱子学を武士やその子どもに教えるための学校を昌平坂学問所(しょうへいざかがくもんじょ)といい、5代綱吉が湯島聖堂に併設して建てた学問所がその前身です。

 

代表的な陽明学者「中江藤樹」

(中江藤樹 出典:Wikipedia

 

 

陽明学といえばこの人、近江(滋賀)出身の中江藤樹(なかえとうじゅ)。

 

日本陽明学の祖と呼ばれる人物です。

 

もとは朱子学者として伊予(愛媛)大洲藩に仕えていましたが、朱子学ではあきたらず、陽明学を学ぶようになりました。

 

ここで、藤樹の代表的な考え方を一つご紹介します。

 

キーワードは“(こう)”です。

 

儒教が重視してきた親に対する親孝行を意味する“孝”を、親はもちろん、全ての人に与えるのが孝の本質であると主張。

 

その孝の本質を“愛敬(あいけい)”という言葉で表現し、全ての人に対して真心をもち、上の者を敬い、下の者を軽んじ侮らない心を持つことが大切であると説きました。

 

藤樹の著書には、“孝行”などの考え方を問答形式でわかりやすく紹介する『翁問答(おきなもんどう)』や女子教育のための訓話集『鑑草(かがみくさ)』などがあります。

 

藤樹の弟子の陽明学者「熊沢蕃山」

(熊沢 蕃山 出典:Wikipedia

 

 

熊沢蕃山(くまざわ ばんざん)は、藤樹の弟子の陽明学者。

 

備前岡山藩の藩主池田光政に仕え、飢饉や凶作で苦しむ貧しい農民の救済や土木事業など藩の政治を行い活躍しました。

 

木を切りすぎると山の保水力がなくなり水害が起こりやすくなるため、山林を保護すべきと主張するなど、日本初のエコロジストでもあります。

 

1687年には著書『大学或問(だいがくわくもん)』で、武士の負担になっていた参勤交代や武士と農民の身分を区別する兵農分離策など、徳川幕府のやり方を非難。

 

それを理由に、下総(千葉)の古河藩に幽閉されてしまいました。

 

しかし、幽閉された後も古河藩の山の整備や水害対策など治山治水事業に携わりました。

 

陽明学の教えの通り、知識と行動力が一体となった人物だったいえますね。

 

陽明学に影響を受けた有名人

 

 

幕府に好まれなかった陽明学を学んだ人の中には、歴史上の有名人たちがいます。

 

1837大阪で大塩の乱を率いた大塩平八郎は、大坂町奉行所の元役人で、陽明学を学ぶ陽明学者でした。

 

 

その頃、大阪は全国で数十万人もの餓死者を出した天保の飢饉の影響で、庶民の生活は困窮していました。

 

しかし、大坂町奉行所は庶民を救済するどころか、幕府の指示で、大阪の米を大量に江戸に送っていました。

 

平八郎はこの状況を見て、「知行合一」の言葉を胸に行動を起こす決意をします。

 

そして弟子など300人とともに大商人を襲い、米やお金を苦しんでいる人たちに分けようとしました。

 

この大塩の乱はわずか半日で鎮圧されましたが、幕府の元役人である平八郎の反乱は幕府に衝撃を与えました。

 

このほか、激動の幕末を生きた、松下村塾で知られる吉田松陰明治維新の立役者西郷隆盛も陽明学を学びました。

 

 

どの人物にも陽明学の「知行合一」が根底に流れ、行動力があるが故に、寿命ではなく、最期は非業の死を遂げる運命をたどった共通点があるようです。

 

まとめ

 陽明学とは、16世紀前半の明(中国)の時代に王陽明が始めた儒学をルーツとする学問のこと。

 知識を得ることを第一とする朱子学に対し、知識があっても行動しなければ意味がない「知行合一(ちこうごういつ)」の考えを説いた。

 行動力があり、幕府の政治を批判する人たちに好まれたため、陽明学は江戸幕府には敬遠された。

 中江藤樹は陽明学の祖と呼ばれる陽明学者。

 日本史上の有名人、大塩平八郎、吉田松陰、西郷隆盛も陽明学を学んでいた。




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