1900年から1901年にかけて中国で起こった義和団の乱。
その講和条約である北京議定書はどのような内容で、その後の日本や中国にどのような影響を与えたのでしょうか?
今回は、この『北京議定書』について簡単にわかりやすく解説していきます。
目次
北京議定書とは
北京議定書とは、義和団の乱(またの名を北清事変)で戦った、中国の清朝とイギリス・アメリカ・ドイツ・フランス・オーストリア・イタリア・ロシア・日本の列強八カ国にスペイン・オランダ・ベルギーの三カ国を加えた十一カ国の間で結ばれた条約です。
清は莫大な賠償金を課せられた上に、列国に駐兵権を認めることとなり、経済的な負担が清朝の滅亡を早めました。
清朝を引き継いだ中華民国でも同様の悩みは続きます。
この条約によって列強諸国による中国の半植民地化がさらに進む結果となり、日露戦争や日中戦争などの要因にもなっていきました。
義和団の乱と北京議定書
(義和団の乱 出典:Wikipedia)
①義和団の乱の勃発
北京議定書の内容に触れる前に義和団の乱についても簡単に説明しておきます。
義和団の乱とは、義和団という民間信仰を取り入れた武術集団が起こした反乱です。
アヘン戦争以降、欧米列強は中国侵略を進めていきます。その中には中国におけるキリスト教の布教活動の拡大もありました。
中国人の中には欧米の侵略だけではなくキリスト教に対しても好ましく思わない人たちがいました。こうした人たちのなかから義和団が出来上がっていきます。
彼らは扶清滅洋(清を助け洋を滅ぼす)をスローガンに各地で暴動を起こし、西洋人と関わりの深い中国人商店や西洋人の住居、教会、鉄道などの破壊を行いました。
清朝としては治安維持のためこれを取り締まる必要がありましたが、列強の侵略に困っていた清朝も義和団に同情的な姿勢を取ります。
そしてついに清朝は列強八カ国に宣戦を布告。
義和団や清朝軍は士気が高かったものの武器や指揮能力に乏しく、日本とロシアを主力とする連合軍に敗れることになります。
こうして講和条約の話し合いが持たれ、締結されたのが北京議定書です。
②北京議定書の内容
北京議定書は中国ではその年の干支をとって辛丑和約とも呼ばれています。
当時の日本は桂太郎内閣でした。
日本からは全権代表として小村寿太郎が参加。清朝側は清朝の皇族である康親王と李鴻章が参加しました。
清朝側は最高実力者である西太后の地位が保全されることを第一と考えていたので、北京議定書はほぼ列強側の希望通りの内容となりました。主なものは以下のとおりです。
- 義和団に殺害されたドイツ公使と日本書記官への弔問
- 外国人殺害があった市や府における5年間の科挙の禁止
- 賠償金として4億5000万両、年利4%39年分割払い
- 天津にある大沽砲台を始め北京までの砲台の撤去
- 居留民保護のため公使館区など北京や天津への軍隊の駐留
被害にあった列強への賠償を謝罪とお金でするとともに、義和団が活動した地域では清朝の公務員試験である科挙を禁止し、再発防止のため軍事施設の撤去と軍隊の駐留権を列強は得ました。
北京議定書による清朝と中華民国への影響
①光緒新政の実施
敗れた清朝では光緒新政という改革が行われます。
清朝では以前にも日清戦争の敗北後に戊戌の変法という改革が行われたのですが、保守派のクーデターによってつぶされていました。
今回、義和団の乱での敗戦により保守派が一掃されたことで再度改革が行われることになったのです。
科挙の廃止や憲法の制定、国会開設など近代化を目指したものでしたが、目的は清朝の支配を延命させることにありました。
もともと清朝は満州族による征服王朝であり、大多数の漢民族を少数の満州族が支配していたのです。
義和団の乱における敗戦は清朝支配の正当性を揺るがすものでした。
②袁世凱の台頭と満漢対立
清朝の直属軍が連合軍と戦い壊滅する中、袁世凱の軍は連合軍との戦闘がほとんどなく、戦後もほぼ無傷のまま残っていました。
乱後の清朝において最強の軍隊を握っていた袁世凱が李鴻章に代わって、清朝で重要な役割を担うことになります。
光緒新政において、軍事優先で改革が行われたことも袁世凱の発言力増大に影響しました。
また満州族ではなく、漢民族の袁世凱が軍を握っていることが満州族と漢民族の対立要因になっていきました。
③財政再建の失敗と滅亡
一番ネックになったのが多額の賠償金です。
清朝の年間収入は約9000両ですので、利息を除いても国家予算の5年分にあたります。利払いまで含めるとさらにその倍近くになりました。
賠償金支払いのため税金を増やすことになりますが、これは民衆の清朝に対する不満になります。
さらに外国からお金を借りるための担保として清朝は鉄道の国有化を行います。
これに反発した人々が革命勢力と結びつき、四川省で暴動が勃発。これをきっかけに辛亥革命が起こり、清朝は滅亡してしまうことになりました。
④中華民国への影響
清朝を引き継いだ中華民国は袁世凱を大総統としてスタートします。
しかし、賠償金の支払いは依然残っています。前政権が結んだ条約も引き継がないと国家として認めてもらえないのです。
明治新政府が江戸幕府が結んだ不平等条約を引き継いだのも同じです。
中央政権の経済的負担が大きいということは政権が安定しません。
袁世凱死去後、中華民国で軍閥による争いが繰り返されること、またそれにつけこんで日本が勢力伸張を図り、中国や英米との対立に結びついたことにもつながりました。
こうした中国を巡る状況や莫大な賠償金請求に対して世界的に批難が起きたこともあり、賠償金を中国のために使う動きも出てきました。
アメリカは教育のためとして清華大学の建設に、また日本も中国に対する文化事業や中国人留学生の援助に賠償金を充てました。
その後、中華民国は賠償金総額6億5000万両を1938年まで支払い、この問題は終了しました。
日本への影響
①大陸への進出
中国が弱体化し半植民地化が進む中で、日本は大陸への進出を進めることになります。
大陸における日本の利権を守りつつ、機会あるごとにさらにそれを増やしていこうという姿勢が、この後繰り返される日本の対中国政策です。
日露戦争や二十一か条の要求、満州事変などへもつながってきます。
日本の中国への進出が、中国のナショナリズムを刺激し日中対立になっていったこと、またアメリカとの関係も悪化させていったことで太平洋戦争の破滅まで続いていくことになります。
②盧溝橋事件の勃発
その後の日中対立や戦争に関連して、最も北京議定書が影響しているのが盧溝橋事件です。
これは1937年(昭和12年)に北京郊外の盧溝橋で日中両軍が衝突し、日中戦争が始まったきっかけとされる事件なのですが、このとき盧溝橋にいた日本軍が北京議定書で認められた日本軍の駐留部隊だったのです。
それまで小競り合いで済んでいた日本と中国の軍事衝突が本格化することになったこの事件に関わったという点で、北京議定書はのちの日本に大きな影響と与えていると言えるでしょう。
まとめ
✔ 北京議定書とは、義和団事件の講和条約のこと。
✔ 清朝と日本を含む11カ国との間で結ばれた。
✔ 清朝は賠償金の支払いや北京などへの駐兵権を認め中国の半植民地化が進んだ。
✔ その後清朝は近代化のための改革として光緒新政を行うものの挫折。
✔ 賠償金支払いのため鉄道国有化を巡って反乱が起き清朝は滅亡。
✔ 中華民国が賠償金を支払うが、政権基盤が不安定になり日本の進出を許すことになった。
✔ 北京議定書により北京に駐留していた日本軍部隊が盧溝橋事件のきっかけになった。