“平城京”と“平安京”は知らない人はいない有名な都ですね。
ほとんどの人が知っている内容を整理してまとめつつ、ここでさらに詳しくみていきましょう。
平城京と平安京の違い
まずこの2つの違いを確認しましょう
①成立年号(時代)と天皇の違い
「平城京」は奈良盆地に広がっていた奈良時代の都、710年元明天皇が造営しました。
一方、「平安京」は京都市に広がっていた平安時代の都、794年桓武天皇により造営されました。
②場所の違い
「平城京」の場所は現在の奈良県奈良市から大和郡山市周辺になります。奈良盆地の北部につくられた都なのです。
水の確保が難しく、その為に衛生環境はあまりよくなかったようです。
一方、「平安京」は現在の京都市周辺に作られ、多くの川に囲まれているため、逆に川の氾濫などに配慮したり、都の中に人口の川を作るなどしていたようです。
③大きさの違い
「平城京」は東西約4.3㎞(外京を含めると約6㎞)南北約5㎞の大きさで、「平安京」は東西に約4.5㎞南北に約5.2㎞であり、全体的に平城京を少し大きめにした感じですね。
④特徴の違い
この二つの都は、どちらも唐の長安を見本にしたもので、都市区画整備を碁盤目状に配置していく「条坊制(じょうぼうせい)」という方法で作られています。
ただし形が大きく異なり、「平城京」は東西南北のほぼ正方形とさらに北東に外京がありますが、「平安京」は綺麗な長方形になっています。
また、いずれも天皇の住まう区域を北部に備え、そこから南北に朱雀大路(すざくおおじ)という幅が約70mと非常に大きな道がはしっています。天皇側からみて右を右京、左を左京と呼ぶところまでは同じです。
ただし、「平城京」では天皇の住まいは「宮」とし、「平城宮」と呼びますが、「平安京」以後では「大内裏(だいだいり)」と呼んでいるようです。
そしてその区域の正門は「平城京」では朱雀門(すざくもん)、「平安京」では応天門(おうてんもん)となります。
ちなみに有名な羅城門(らじょうもん)は、朱雀大路の南端、都の南の正面に立つ巨大な門で、外国の使節をお迎えしたり、祭りを行ったりしていたそうです。
⑤その他の違い
その他「平城京」は仏教で国を治めようとする時代の都なので、都の中に多くの寺院が建立されています。
しかし、「平安京」は出来る限り仏教色を薄める必要があったので、寺院は少なく、都の隅の方に見られます。
日本の“都”とは?
では、古代からの日本の“都”とはどのようなものなのでしょうか。
①「都」
元々は統治者がいるところ、政(まつりごと)の中心の場所を表していたようです。
卑弥呼の時代などは、統治者の住む所と政治の場はほぼ同じであり、その建物も周囲より大きく、兵士が警備していたと記録があります。
そこから時代を経て居住する所と公の場が分かれていき、規模も徐々に大きくなっていったのです。
②「宮」と「京」
天皇の住まいを指す「宮」ですが、7世紀末位までは天皇の代替わりに「歴代遷宮」として「宮」の移し替えがあったようです。
大化の改新で中大兄皇子が改革を進めた大阪「難波宮(なにわのみや)」や白村江の戦い以後、天智天皇に即位して政治を行った滋賀「大津宮(おおつのみや)」は中学でも出てきましたね。
そして、壬申の乱の後、天武天皇が政治を行ったのは奈良「浄御原宮(きよみはらのみや)」でした。
そして、「京」とはこの「宮」を含んで他氏族が居住している地域までの区域のことを言いますが、この言葉が出てくるのは「藤原宮」を含んだ「藤原京」からとなります。
藤原京の詳細
(藤原京 出典:Wikipedia)
日本で最初に整備された「都」が「藤原京」です。
①律令国家を目指して
天皇中心の中央集権国家を作り上げるべく天武天皇が、取り組んだ事業の一つが「藤原京」の造営でした。
天皇の権力や権威の象徴として、巨大な都が必要だったのです。
実際に完成したのは694年の持統天皇の時代となります。
②「歴代遷宮」の廃止
天皇の代替わり毎に「遷宮」していたそれまでの習慣が、この「藤原京」の造営により変化し、長く使える壮大な都として構えていくことになります。
その大きさは東西に約5.3km、南北に約4.8kmだったといわれています。
③中国の都を参考に
当時大規模な都を造るというのは初の試みであったため、中国の都にならった建設が行われました。
「藤原宮」には瓦屋根や朱塗りの柱が使用され、都市区画整備は碁盤目状に配置していく「条坊制(じょうぼうせい)」で進められたのです。
また、ここでは「藤原宮」が「藤原京」の中央に配置されているのが大きな特徴となっています。
実際の長安の都や、それ以後の都とは大きく異なっているのですが、これは中国の古典を参考にして実際の都は確認せずに設計を進めた結果のようです。
平城京の詳細
(平城京跡 出典:Wikipedia)
ここからは「平城京」について詳しくみていきましょう。
①藤原京からの遷都
多くの労力や費用を要して造営された「藤原京」ですが、わずか16年で「平城京」へ遷都となってしまいます。
その理由は諸説あるようですが、いくつか挙げてみます。
(1)「宮」の位置間違い
702年遣唐使が再開されたことで、前述していた「宮」の位置間違いが明らかになります。
唐を模範にした国づくりを進める中で、君主の位置が異なることは、あまり良いことではないと考えられたのかもしれません。
(2)疫病の蔓延と占い
藤原京の位置は川が遠く、水不足が懸念された上、立地の高低差の影響で汚水が中央に流れやすく、衛生面が良くなかった為、疫病などが流行ったのではないかと思われています。
また、平城京の位置が縁起の良い土地とされていたらしく、不吉な土地からの脱却を図ったという点も考えられます。
(3)政治上の思惑
持統天皇の庇護のもと、力を強めていた藤原不比等は、娘をその孫である文武天皇へ嫁がせ、さらに権力を握ろうとします。
その中で旧勢力が多い飛鳥の地に近い藤原京が好ましくなかったともいわれています。
②平城京の造営と特徴
710年元明天皇の時代に「平城京」は完成されたといわれていますが、実際は皇居などの重要な部分だけだったそうです。
市街地などの部分はその後も建設が進められていきます。
大きさや特徴は前述の違いでみたとおりです。
③仏教と平城京
平城京の造営は非常に過酷な強制労働を民衆に課すことになります。
また当時は税負担も非常に重く、口分田からの逃亡者も出て、治安も悪化していきました。
この時代に有名な聖武天皇ですが、その治世下では「長屋王の変」「藤原広嗣の乱」などの政変や、天災や疫病の流行も起こり、非常に社会不安が大きくなっていました。
天皇は皇后光明子とともに仏教の力で国を治めていこうとします。
国分寺や東大寺大仏殿の建立は周知のことですね。
また興福寺・唐招提寺・薬師寺など多くの寺院も建立されています。
④シルクロードの終着点
この時代には遣唐使を度々送り、唐の制度や文化を積極的に取り入れていこうとします。
その為、平城京は「シルクロードの終着点」として国際的な都になっており、京内にはインド人、唐人など色々な国の人がいたそうです。
また仏教文化である天平文化が栄えましたが、聖武天皇の遺品が多く収められている正倉院の宝物殿はよく知られていますね。
平安京の詳細
(平安京復元模型 出典:Wikipedia)
平城京の後、実はすぐに平安京遷都とはなりませんでした。
①聖武天皇の迷走
740年藤原広嗣の乱の際に、平城京を後にした聖武天皇は、その後情勢不安の度に短期の遷都を繰り返します。
恭仁京(くにきょう)・紫香楽宮(しがらきのみや)・難波京などですが、745年には平城京に戻ります。
都度かかった費用を思えば、非常に無意味な遷都だったのかもしれません。
②長岡京への遷都
784年桓武天皇の命により造営されたのが京都の長岡京です。
この遷都の理由も色々ありますが、簡単にあげてみましょう。
③立地問題
平城京の近くにも小川はあったようですが、人口が10万を越えた都の水源としては物足りなかったようです。
この問題の解決のために桂川・宇治川・淀川に近い場所が選ばれ、豊富な水源による環境改善と、水路確保が期待されたのです。
④桓武天皇の血統問題
桓武天皇は天武天皇の血筋でなく天智天皇の血筋でした。
「平城京」は元明~称徳天皇までと続いた都ですので、長く続いた天武系統の流れを組む都ではなく、新しい流れで政治を行いたいという意図があったとも考えられています。
⑤仏教勢力からの脱却
奈良時代後半には道教事件などのように貴族や僧の間で勢力争いが激しくなり、政治が混乱しました。
その仏教勢力の政治介入を無くすためにも、新しい都での政治の立て直しを図ったと言われています。
⑥長岡京から平安京へ
せっかく造営が始まった長岡京ですが、桓武天皇が重用し、京の造営を任せていた藤原種継が暗殺されてしまいます。
またその暗殺の首謀者の中に弟である早良親王が含まれていました。早良親王は冤罪を訴え、抗議の上餓死してしまいます。
その後、日照りによる飢饉、天然痘などの疫病流行、天災等が起きたため、早良親王の祟りとして怨霊を鎮める儀式を行いますが、効果がなく遷都10年で長岡京を手放すことになるのです。
⑦平安京への遷都
794年長岡京からさらに北東に10㎞移動した地に平安京が造営されました。
この地は陰陽道で選ばれたらしく、桓武天皇が非常に祟りを恐れたことが伺えます。
そしてこの平安京の路などは今の都市にも続いているのです。
⑧平安京の特徴
平安京の特徴も前述通りですが、さらに仏教勢力に対して天皇の権威を高めるために、大内裏の中にある主要な行事を行う場「大極殿(だいごくでん)」を目立つように建造したそうです。
平安京はいままでの都の反省点を多く活かして造営され、その為以後長く続く都として栄えていくのです。
まとめ
✔ 「平城京」は奈良盆地に広がっていた奈良時代の都、710年元明天皇が造営。
✔ 「平安京」は京都市に広がっていた平安時代の都、794年桓武天皇により造営。
✔ 「平城京」は東に外京を持ち東西約6㎞南北約5㎞で、寺院が多く建立されていた。
✔ 「平安京」は東西約4.5㎞南北約5.2㎞の長方形をしている。
✔ 「藤原京」から16年で「平城京」へ遷都されたが、宮の位置修正・衛生問題・政治事情が原因と考えられる。
✔ 唐や西方の文化を取り入れて「平城京」は国際色豊かな都となっていた。
✔ 奈良期後半の諸事情により「平城京」から「長岡京」の遷都が行われた。
✔ 「長岡京」遷都は仏教の政治介入からの脱却・天皇の系統変化・水不足解消が考えられる。
✔ 造営責任者の暗殺及びその後の早良親王の呪いの影響で「長岡京」から「平安京」への遷都が実施された。
✔ 平安京は現在の都市へ長く続く、過去の反省を活かして多機能的に造られた都である。
▼もっと詳しく知りたい方はこちら!