今回は江戸時代に起きたふたつの弾圧事件“蛮社の獄”“安政の大獄”のそれぞれの違いついて詳しく解説します。

 

まず、それぞれの事件はどのような内容だったのか、詳しくみていきましょう。

 

蛮社の獄と安政の大獄の違い

 

 

蛮社の獄と安政の大獄、それぞれどのような事件だったのかを大きく3つの点から見ていきましょう。

 

①時代の違い

〇蛮社の獄・・・1839年(天保10年

 

〇安政の大獄・・・1858年(安政5年

 

②きっかけの違い

〇蛮社の獄・・・渡辺崋山や高野長英がモリソン号事件を受けて幕府へ批判し、守旧派の鳥居耀蔵に罪を捏造された。

 

〇安政の大獄・・・大老井伊直弼が勅許を得ないまま日米修好通商条約を調印した。

 

③弾圧された人の違い

〇蛮社の獄・・・渡辺崋山や高野長英などの蘭学者。

 

〇安政の大獄・・・尊王攘夷思想を持った公卿や大名や志士。

 

ここからは、『蛮社の獄』『安政の大獄』それぞれについて詳しく解説していきます。

 

蛮社の獄について詳しく

江戸時代後期に起きた、蘭学者に対する弾圧事件を“蛮社の獄”といいます。

 

では、なぜ蘭学者が弾圧されることになったのか。

 

この事件は、保守的立場な守旧派と革命的立場の開明派による対立が垣間見えるものでした。

 

守旧派 VS 開明派

江戸時代、オランダの学術「蘭学」が日本へ伝来し、日本でも多くの蘭学者が育ちました。

 

 

西洋の学問は日本の近代化に大きな影響を与えていましたが、当時の日本の国論は守旧派(鎖国派)と開明派(開国派)に二分していました。

 

三河(愛知県)の田原藩の家老『渡辺崋山』は、開国へ向けた幕政改革を進めようと蘭学者の高野長英や小関三英らと、尚歯会という集会を開いて西洋の知識をともに勉強していました。

 

しかし、大学頭(昌平坂学問所の長官)林述斎の子『鳥居耀蔵』は、蘭学とはべつの儒教思想に基づく守旧派の立場から渡辺崋山たちを嫌い、憎んでいました。

 

②モリソン号事件とその批判

江戸幕府は1808年(文化5年)フェートン号事件以来、交流のあった清とオランダ以外の国の軍艦や貿易船に対する警戒を強めるため、「異国船打払令」を全国の大名に命じました。

 

 

1837年(天保8)、アメリカ商船のモリソン号は日本人の海難船員7名を日本に送還し、日本との貿易と宣教団の日本への布教のきっかけづくりをしようと、日本の浦賀沖にやってきました。

 

しかし、異国船打払令があるため、モリソン号は砲撃を受けてしまいます。

 

仕方なくモリソン号は引き返すことになってしまいました。この事件を「モリソン号事件」といいます。

 

 

この事件を知った渡辺崋山は『慎機論』を、高野長英は『戊戌夢物語』を著し、幕府の世界情勢を無視した姿勢と、人道に背く処置を批判しました。

 

③蘭学者の弾圧

1839年(天保9)老中の水野忠邦は、守旧派の鳥居耀蔵と開明派の江川英龍に江戸湾の巡視を命じました。

 

江川と交流があった渡辺崋山は、江川に頼まれ江戸湾の防備に関する意見書や『西洋事情書』という論文を送ります。

 

江川と崋山が親しいことを知った鳥居は「幕藩体制は開明派のせいで揺らいでいるんだ。開明派の幕臣を陥れよう!」と考えました。

 

そして、鳥居は「崋山が小笠原島(当時は無人島だが西洋人が住んでいたとされた)への渡航計画に関係している(当時は西洋人と接触することを禁じられていた)」、「高野長英らと一緒に蘭学を教えながら幕政批判もしている」と嘘を吐き、罪を捏造したのです。

 

この工作により、崋山や長英らの蘭学者グループは幕府に逮捕されてしまいました。この弾圧事件を「蛮社の獄」といいます。

 

取り調べの結果、崋山の無人島渡航計画の容疑は晴れましたが、幕政批判をした罪は重く、崋山は自宅謹慎・長英は牢屋に終身閉じ込められるという刑罰が下りました。

 

二人はやがて自殺に追い込まれてしまいました。

 

安政の大獄について詳しく

江戸時代後期に起きた、尊王攘夷運動に対する弾圧事件を“安政の大獄”といいます。

 

では、なぜ攘夷派が弾圧されることになったのか?

 

この事件は、幕末の攘夷派と開国派の対立を激化した要因のひとつでもありました。

 

南紀派 VS 一橋派

1857年(安政4)老中の阿部正弘死去後、幕府の実権を握ったのは老中堀田正睦でした。

 

堀田は開国を進めようとしており、同じ考えを持つ仲間に彦根藩主の井伊直弼がいました。

 

しかし、ペリーが来航して以来、攘夷の考えを持っている徳川斉昭や松平春嶽、島津斉彬らとの対立してしまいます。

 

そんななか、病弱で子供に恵まれなかった第13代将軍徳川家定の後継問題が浮上します。

 

この問題に幕府の独裁体制をつくろうとした諸代大名の一派「南紀派」は、紀州藩主徳川慶福(のちの家茂)を、

 

薩摩藩や土佐藩など力を持った藩、外様大名が話し合って政治を行おうとする一派「一橋派」は、一橋慶喜(のちの徳川慶喜)をつぎの将軍に推します。

 

こうしてふたつの派閥の対立が激しくなるなかで、南紀派の井伊直弼が大老に就任し、独断的に徳川慶福をつぎの将軍にすることを決めてしまったのです。

 

②日米修好通商条約の調印

同じ頃、江戸幕府には度重ねてアメリカの総領事タウンゼント・ハリスが日米修好通商条約への調印を迫っていました。

 

条約に調印すれば、日米の友好関係を維持するほかに、港の開港や貿易の開始などで鎖国は完全に破れることになります。

 

そのため攘夷派の大名だけではなく、時の天皇『孝明天皇』も条約締結には大反対していました。

 

もちろん条約に調印するための天皇の許可「勅許」を得ることは叶いません。

 

大老に就任した井伊直弼も、最後まで勅許を得ることを優先しようと主張していましたが、積極的な開国派の老中たちに押されてしまい、最終的には勅許を得ることのないまま1858年(安政5年6「日米修好通商条約」を調印しました。

 

 

③攘夷派の弾圧

後継問題で敗れた一橋派が尊王攘夷派(天皇を敬い外国人や思想を国内に入れないという考えをもつ)へと形を変え、勅許を得ないまま通商条約に調印した井伊直弼を含む幕府に対立する姿勢を構えました。

 

孝明天皇も幕府が行った条約調印には激怒し、譲位の考えを示すとともに、水戸藩へ「戊午の密勅」という条約調印に対する不満を表した密勅を送りました。

 

朝廷内にも幕府を支持する派閥と尊王攘夷を支持する派閥に分かれて対立するようになり、こうした事態を「幕府の危機だ!」として井伊直弼は対策を考えます。

 

そこで、井伊直弼は1858年(安政5)、幕府に反対する公卿や大名、幕府の役人を辞めさせ、攘夷の考えを持つ志士を検挙、処罰しました。この弾圧事件を「安政の大獄」といいます。

 

大名の徳川斉昭や長州藩士の吉田松陰らが処罰され、多くの攘夷思想をもつ大名や志士が徹底的に弾圧されたのです。

 

この弾圧事件を受けて、井伊直弼は2年後、水戸藩などの脱藩浪士に桜田門外で暗殺されます(桜田門外の変)。

 

 

まとめ

 蛮社の獄とは幕府が行った蘭学者に対する弾圧事件。

 渡辺崋山や高野長英がモリソン号事件を受けて幕府を批判した。

 安政の大獄は井伊直弼が行った尊王攘夷派に対する弾圧事件。

 将軍の後継問題で南紀派と一橋派が対立した。

 井伊直弼が勅許を得ないまま日米修好通商条約を調印したことで攘夷派との対立が激化した。

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