なんか鬱陶しい行動をしている人がいたら、ムカついてきますよね。
昔の日本人もそんな鬱陶しい人たちがやってきて、ムカムカしていた人々が日本の歴史に名を残していたのです。
今回はそんなムカムカしていた時代に起こった思想である尊王攘夷運動(そんのうじょういうんどう)について簡単にわかりやすく解説していきます。
目次
尊王攘夷運動とは?
尊王攘夷運動とは『王を敬って夷人(いじん)を追い出そう!』という思想である尊王攘夷派の人たちが起こした運動のことです。
時代は幕末(江戸末期)、日本における王は将軍ではなく天皇、夷人というのは開国して欧米からはるばるやってきた外国人のことです。
尊王攘夷の思想は、長州藩と水戸藩を中心に地位が低い武士に広まっていきます。
この運動によってさまざまな外国人に対する事件が起こってしまいました。
攘夷の理由「きっかけは開国」
(黒船来航の様子 出典:Wikipedia)
天皇を敬おうというのはわかりますが、どうして外国人を追い出そうとしたのでしょうか?
実はこの時、ペリーが黒船で日本にやってきて大混乱の状態。このペリー来航により日本は鎖国を終わることになりました。
鎖国をやめたことによって日本には、欧米などの産業革命で作られた安くて質がいい最高の商品が日本に入ってくるようになりました。
しかし、日本では昔ながらの手作りで商品を作っていました。
そのため日本の製品は値段が高い。
そのせいで外国の商品だけ売れてしまい、日本の商品は売れなくなってしまいました。
さらに日米修好通商条約によって関税を日本が決めれなくなってしまい、その状態はどんどん酷くなってしまいます。
この結果、日本の産業は壊滅的な被害を受けてしまいます。
こうして人々はどんどん外国人が嫌いになっていき、そして攘夷という思想が生まれます。
孝明天皇の幕府に対する怒り
(孝明天皇 出典:Wikipedia)
日米修好通商条約はなんと大老である井伊直弼が独断で結びました。
実はこれには事情がありました。
実はこの時の天皇の孝明天皇はゴリゴリの外国人嫌い。
一回幕府の役人が『外国と条約結びますけどいいですか?』と聞いたところ、孝明天皇は『神国日本が外国人みたいな汚くて卑しい化け物みたいな人と仲良くするなんてありえない!そんなもん無しだ!』とある意味、無茶苦茶なことを言って拒否してしまいます。
しかし、井伊直弼も外国と条約を結ばないとまずいと思っていたので天皇に内緒で条約を結びました。
その結果、日本の産業はボロボロになってしまう有様に。
すると怒りは外国人だけではなく、ペコペコしながら条約を結んだ幕府に向けられます。
この時、天皇が外国人嫌いだということが理由でこの時別々だった「尊王論(天皇を敬う)」と「攘夷論(外国人を追い出す)」が合体して尊王攘夷論という考え方になっていきます。
だって天皇を敬う=天皇の敵である外国人を追い出すという感じになりますからね。
尊王攘夷運動による過激な運動
井伊直弼は幕府の批判をしている尊王攘夷派の人を次々と殺してしまいます。
この事件のことを安政の大獄といいます。
しかし、安政の大獄によって激怒した水戸藩の浪士(この時の水戸藩は日本有数の尊王派の藩)が井伊直弼を暗殺します。
この事件のことを桜田門外の変といいます。
さらにヒュースケン襲撃事件のような尊王攘夷派による外国人襲撃事件が各地でどんどん起こっていきます。
尊王攘夷論の反対の考え『公武合体論』
尊王攘夷論と同じくらい欠かせないのが公武合体論という思想。
公武合体論とは『公家(天皇)と武家(幕府)が一緒になって政治をやっていこう!』という考え方です。これに幕府と薩摩藩と越前藩が支持します。
この考え方によって孝明天皇の妹の和宮と徳川家茂が結婚します。
しかし、天皇と幕府が同じ地位になることを尊王攘夷派は許しません。
だって尊王攘夷派の人々は天皇が一番偉いと思っていましたからね。
こうして考え方がまったく違う公武合体派と尊王攘夷派はどんどん対立していくようになっていきます。
尊王攘夷派と公武合体派の対立
尊王攘夷運動はどんどん日本中に広まっていき、外国人を追い出そうとする動きが強くなっていきます。
そしてついに尊王攘夷運動の中心の藩である長州藩は、関門海峡を渡りかけていた外国の船に対してバカスカ大砲を撃って外国の船を攻撃します。
どんどん過激になって行く尊王攘夷運動に、ついに激怒した薩摩藩と京都の治安を守っている会津藩は、尊王攘夷運動の中心であった長州藩と朝廷の中で尊王攘夷派であった三条実美ら七人の公家を京都から追放します。
この事件を八月十八日の政変といいます。(八月十八日の政変で追放された七人の公家の事を七卿落ちと呼んだりもします)
これに慌てた長州藩は天皇に『いやいや違います!これは天皇が外国嫌いだからやっただけのことなんです!』と京都に行って抗議します。
しかし、それが元で薩摩藩と戦争になり、流石に呆れた天皇は長州藩を逆賊として天皇の敵になってしまいます。
尊王攘夷運動の終焉
(下関戦争。連合国に占領された長府 出典:Wikipedia)
長州藩は天皇の敵になった後天皇からの命令を受けて攻めてきた幕府軍にあっさり降伏します。
さらに外国船に大砲を撃った仕返しとして欧米の諸国は長州藩を攻撃しました。(下関戦争)
まさに踏んだり蹴ったりの状態になってしまった長州藩。
こんなボロボロの状態になった時についに長州藩は『この状態で攘夷なんて絶対にできない』と思い始めていきます。
攘夷が無理だということは長州藩と対立していた薩摩藩も思うようになります。
薩摩藩は江戸から薩摩に帰る途中で大名行列を横切ってしまったイギリス人を斬り殺してしまい(生麦事件)、それに怒ったイギリスが薩摩藩を攻撃して戦争となりました。(薩英戦争)
この戦争はイギリスの勝利に終わり薩摩藩も今の状態で攘夷なんで無理だと気付きます。
そして今の状態では攘夷なんて無理だと考えた二藩は、日本を西洋に負けないぐらい強い国にしてそれから攘夷をやろうとなっていきます。
その流れは古臭い制度である幕府という存在をなくすための倒幕運動に繋がっていき、明治維新の原動力になっていくのでした。
まとめ
✔ 尊王攘夷運動とは天皇を敬って外国人を追い出そうとする運動のこと。
✔ 元々尊王論と攘夷論は別々だったが天皇が外国嫌いだったため、この二つの思想は合体して尊王攘夷論となった。
✔ 尊王攘夷運動によってさまざまな外国人が襲撃された。
✔ 長州藩の下関戦争や薩摩藩の薩英戦争によって今のままでは外国に勝てないと思って幕府を倒す倒幕運動へとなっていった。