第二次世界大戦中、軍事部門での人手不足に直面した日本では、中学校や高等専門学校の生徒、大学の学生が強制的に軍需工場や軍隊に駆り出されました。
「学徒動員」や「学徒出陣」と呼ばれるものです。
今回は、『学徒動員と学徒出陣の違い』について、簡単にわかりやすく解説していきます。
目次
学徒動員と学徒出陣の違い
学徒動員とは、日中戦争の拡大に伴う国内の労働力不足を補うために、中等学校以上の生徒・学生を工場や農村に動員したことを指します。文部省主導の下で、日中戦争勃発の翌年である1938年から行われました。
学徒出陣とは、第二次世界大戦末期、兵力不足を補うために、それまで徴兵猶予が認められていた大学や高等専門学校の学生・生徒を陸海軍に入隊させ、戦地に送り出したことを指します。1943年9月に東条英機内閣がこの処置を決定しました。
これらは終戦まで続き、国家総動員体制の基礎となりました。
学徒動員が行われた時代背景
(盧溝橋事件「出動する中国兵」 出典:Wikipedia)
学徒動員が行われた背景には、日中戦争の長期化がありました。
日中戦争とは、1937年7月の盧溝橋事件をきっかけに始まった日本と中国の全面戦争です。
日本は当初「中国軍に一撃を与えれば、すぐに降伏するだろう」と楽観視していましたが、想定を超えた中国軍の抵抗を受け、長期戦に突入しています。
そこで、1937年秋から外交によって戦争を終結する道が模索され、水面下で中国の国民政府との和平工作(トラウトマン工作)が進められました。
ところが、1938年1月に近衛文麿首相が近衛声明を発表し、その中で「爾後(じご)国民政府を対手(あいて)とせず」と明言します。
これは国民政府との事実上の断交です。これにより、中国との和解の道は絶たれてしまいます。
日中戦争のさらなる長期化はもはや避けられなくなりました。これに伴い、国内の戦時体制を強化する必要が出てきます。
学徒動員の詳細
①学徒動員の目的
学徒動員の目的は、国内の労働力不足を補うことにありました。
長期化する日中戦争に対応するため、兵力を増強したところ、働き手となる成人男性が減ってしまったため、軍事物資を生産する工場や食料を生産する農村で、深刻な人手不足が起き始めていました。
②学徒動員の内容
そこで、日本政府は全国の中等学校以上の生徒・学生を在学させたまま、強制的に工場や農村に動員して労働させるという対策を打ちました。
これが学徒動員と呼ばれます。
学徒動員は1938年に始まり、次第に徹底されていきます。
(1)学徒動員の始まり
まず、1938年6月、文部省が「集団的勤労作業運動実施に関する件」という通知を出し、中等学校以上の生徒・学生に、夏季休暇の前後などに3~5日間の勤労作業をさせることを決めました。
もちろん1年で3~5日間ではほとんど労働力不足の解消には役立ちません。むしろ生徒・学生に「国民が一丸となって勤労する」という精神を叩きこむ意味合いの方が強かったと言えます。
ナチス・ドイツで行われた「労働奉仕」がモデルになっていました。
1941年8月になると、文部省は「学校報国団の体制確立方」という訓令を出し、学校ごとに学校報国団という組織を作らせ、軍部の要請に従って生徒・学生を動員する体制を作りました。
(2)学徒動員の本格化
1943年6月には、内閣が「学徒戦時動員体制確立要綱」を閣議決定します。
その要綱では、戦力増強のために本格的に生徒・学生を軍需工場に動員すること、本土決戦に備えて生徒・学生に軍事訓練を行わせることが示されました。
そしてついに、1944年3月、内閣は「決戦非常措置要綱に基く学徒動員実施要綱」を閣議決定しました。
これにより、中等学校以上の生徒・学生は、男女を問わず、軍需工場に動員されました。
現在の私たちが「学徒動員」という言葉でイメージするのは、この時に始まったものです。
(3)戦争末期の学徒動員
1945年3月には、国民学校初等科を除くすべての学校で1年間の授業停止が決まり、生徒・学生は軍需工場や農村での作業に専念させられました。
同年7月の時点で、学徒動員された人数は340万人超に達しており、動員された生徒・学生はもはや軍需産業の労働力の中心を担う存在になっていました。
そうした中で、生徒・学生の学力低下が起こるとともに、一般の工場作業員との間で衝突が生じたり、けがや病気が起きたりするなど、様々な問題が出てくるようになりました。
また、学徒動員中に空襲を受けたことで死亡した生徒・学生も多数いました。
広島・長崎の原爆による死亡者の中にも、そうした生徒・学生が含まれています。
学徒出陣が行われた時代背景
(ミッドウェー海戦 出典:Wikipedia)
1941年12月8日の真珠湾攻撃によって始まったアジア・太平洋戦争では、はじめは日本が戦果を上げていました。
しかし、1942年6月に起こったミッドウェー海戦で大敗北を喫したのを境にして、戦況は徐々に悪化していきました。
また、東南アジア方面に向かった陸軍も、フランス領インドシナに加えて、オランダ領東インドを支配下に置いたものの、兵力の消耗が激しく、人手不足に陥っていました。
学徒出陣の詳細
そこで、すでに軍事教練を受けていたものの、徴兵が猶予されていた学生・生徒を戦地に送り出すという案が浮上しました。
①徴兵猶予
当時の日本では、兵役法(徴兵令の後身)により、満17~40歳の男子に対して兵役が課せられました。
これは大日本帝国憲法で定められた兵役の義務に対応しています。
男子は満20歳になると、徴兵検査を受け、その検査で適格だと判断された者は戦時に軍に徴兵されました。
しかし、この徴兵には猶予規定がありました。
勅令で定められた学校(大学や高等専門学校など)に在学している者は、満26歳まで徴兵を延期することができたのです。
1941年10月以降、政府は修業年限を短縮し、繰り上げ卒業をさせることで、徴兵猶予の影響を緩和してきましたが、兵力不足が深刻化すると、軍部はこの猶予規定を取り消すべきだと主張するようになりました。
②徴兵猶予の取り消し
1943年9月、東条英機内閣は「現状勢下に於ける国政運営要綱」を閣議決定します。
この要綱に合わせて、10月2日に「在学徴集延期臨時特例」という勅令が公布されました。
そこでは、在学中の学生・生徒の徴兵猶予を全面的に取り消すことが定められました。
この勅令によって、理工医系・教員養成学校以外の大学・高等専門学校に在学する学生・生徒のうち、満20歳に達している者は一斉に徴兵検査を受けさせられ、検査で適格だと判断されると軍に徴兵されました。
最初の学徒兵の受け入れは、陸軍では同年12月1日、海軍では同月10日でした。
そして、同年12月に公布された「徴兵適齢臨時特例」という勅令で、徴兵年齢の引き下げが決まると、さらに多くの学生・生徒が徴兵されることになりました。
このように在学中に徴兵猶予が取り消されて徴兵された学生・生徒の人数は、いまだはっきりとは明らかになっていませんが、20万人程度だと推定されています。
③出陣学徒の壮行会
当時、「学徒出陣」が一躍有名になったのは、1943年10月21日に東京・明治神宮外苑の陸上競技場で行われた出陣学徒の壮行会のためです。
この壮行会では東条英機首相が訓示を述べ、学徒代表は「挺身以て頑敵を撃滅せん、生等もとより生還を期せず」と誓っています。
壮行会の様子は、映像で記録が残っています。ネット上でも簡単に見つけることができます。
④学徒兵のその後
学徒兵は陸海軍の各部隊に配属された後、短期間の訓練を受けて、中国、東南アジア、南太平洋の前線に送られました。
軍部の無謀な作戦のため、多くの戦死者が出ました。
終戦後には戦没学生を悼んだ出版が行われました。
1947年には東京帝国大学の戦没学生の手記『はるかなる山河に』が出版され、1949年には全国の大学の戦没学生の手記『きけわだつみのこえ』が出版されています。
また、1950年4月には、次世代に戦争体験を伝えるために、日本戦没学生記念会(通称「わだつみ会」)が結成されました。
まとめ
✔ 学徒動員とは、日中戦争の拡大に伴う国内の労働力不足を補うために、中等学校以上の生徒・学生を工場や農村に動員したこと。
✔ 文部省主導の下で、日中戦争勃発の翌年である1938年から行われた。
✔ 学徒出陣とは、第二次世界大戦末期、兵力不足を補うために、それまで徴兵猶予が認められていた大学や高等専門学校の学生・生徒を陸海軍に入隊させ、戦地に送り出したこと。
✔ 1943年9月に東条英機内閣がこの処置を決定した。
✔ 学徒動員と学徒出陣は終戦まで続き、国家総動員体制の基礎となった。