初期の江戸幕府で行われていた武断政治。

 

大名たちを武力で統制した政治です。そして武断政治の次に登場するのが文治政治です。

 

今回は文治政治へ転換した理由にも触れながら、『武断政治』についてわかりやすく解説していきます。

 

武断政治とは

(徳川家康 出典:Wikipedia

 

 

武断政治(ぶだんせいじ)とは、徳川家康から2代秀忠、3代家光にかけて行われた武力で家臣を統制する政治のことです。

 

家臣である大名を圧倒的な武力で威圧し、逆らう者がいれば、領地や身分をはく奪して藩を取り潰す改易(かいえき)とよばれる厳罰を下しました。

 

大名が恐れる厳罰は主に、改易減封転封3種類。一番厳しかったのは改易で、大名の身分をはく奪し、領地を取り上げて大名の家を取り潰しました。

 

減封は領地の削減、転封は大名の領地を移動させることで国替(くにがえ)とも言います。

 

では、家康・秀忠・家光が、諸大名たちにどんなルールを課したのか、具体的な政策を解説していきます。

 

武断政治下の政策

(大名の州訪問 出典:Wikipedia)

大名を3つに分けて支配 

江戸幕府の将軍と直接主従関係を結び、1万石以上の領地をもつ武士大名といいました。

 

江戸幕府初期、全国に200家ほどあった大名の中で、徳川家のファミリー大名は親藩とよばれ、全国の重要地に置かれました。中でも力のあったのが尾張・紀伊・水戸の徳川家で、みなさんご存知の御三家とよばれた人たちです。

 

関ヶ原の戦いよりずっと前から徳川家を支えてきた大名は譜代大名。井伊家(彦根藩)、土井家(佐倉藩)などが有名ですよね。

 

大名的にランクの下なのが、関ケ原の戦いのタイミングで徳川家に従った外様大名。いまいち信用できない大名なので、江戸から遠く離れた地域に置かれたうえ、幕府の要職につくこともありませんでした。

 

前田家(加賀藩)、島津家(薩摩藩)、伊達家(仙台藩)、 毛利家(長州藩)などが有名ですよね。

 

②一国一城令(1615年) の発令!

家康は江戸幕府を開いて早々に将軍の座を息子秀忠に譲り、大御所(おおごしょ)として政権を握る大御所政治を行いました。

 

その体制の下、2代将軍秀忠が発令したのが「一国一城令」。文字通り、ひとつの藩にひとつの城を意味します。

 

大名には藩内にある自分の住む城以外すべての城をキレイに跡形もなく取り潰すことを命じました。

 

目的は幕府に反抗する勢力の拠点となることなどを恐れたため。大名統制の一環です。

 

 

武家諸法度(1615年)の発令! 

これも大御所の家康が秀忠に発令させたものです。

 

武家諸法度は大名たちに対する法律で、将軍の代替わりのタイミングで、修正を加えたりしながら出されました。

 

その第1回目の武家諸法度が1615年の武家諸法度元和令。中身は、諸藩の城は修理する場合でも幕府の許可を得ること、新しい城の築城は禁止、大名は幕府の許可なく結婚してはいけないことなどが決められました。

 

3代将軍家光が出した武家諸法度寛永令では、大名が江戸と藩を1年おきに往復する参勤交代の制度化、500石積以上の大船の建造を禁止することなどが加えられました。

 

 

改易処分を受けた主な大名

 

 

武断政治では、武家諸法度に違反した大名はもちろん、将軍が個人的に気に入らない大名にも何らかの理由をつけて改易処分にしました。

 

ここでは改易にされた何人かの大名をご紹介します。徳川ファミリーである親藩であっても容赦なしだったようです。

 

①松平忠輝 越後高田藩(親藩)     

徳川家康の6男で、親藩である越後高田藩主。

 

徳川家の超重要な戦い大坂の陣に参加しなかったことなどを理由に改易されました。

 

 

②福島正則 広島藩(外様大名)    

幕府に許可を得ず広島城を無断で修理したことを理由に改易されました。

 

台風で雨漏りしたからちょっと直しただけだったのに…。

 

③本多正純 宇都宮藩(譜代大名)

秀忠の側近として働いた人物。秀忠暗殺の濡れ衣をきせられ改易されました。

 

④加藤忠広 熊本藩(外様大名)

加藤清正の3男。家光が嫌っていた弟の徳川忠長と仲が良く、忠長を将軍しようとするのではないかと幕府が勝手に警戒。

 

特に改易する理由もなかったようですが、忠広の家臣の統制がしっかりしていないなど、無理やり理由をつけて改易に。

 

忠弘は父清正から受け継いだ肥後熊本藩を不本意な形で奪われてしまいました。

 

文治政治になった理由

武断政治の弊害

武断政治による改易処分によって、多くの大名家が取り潰されました。

 

そして、仕える主君を失った牢人(ろうにん)たちは40万人にものぼり、町に溢れるようになりました。

 

仕事がない労働者が反乱を起こすのは、方法の違いこそあれ、いつの時代も同じです。

 

牢人となった人たちの中には、幕府への不安から打倒幕府の計画を企てる人たちもあらわれました。

 

牢人たちの反乱

16513代家光死去し、4代家綱が就任するタイミングで、兵学者の由井正雪(ゆいしょうせつ)が丸橋忠弥(まるばしちゅうや)ら2千人もの牢人とともに江戸、駿府、上方(京都) で一斉に挙兵する計画を企てました(慶安の変)。

 

しかし、密告者がいたことで計画は失敗に終わりました。

 

慶安の変の翌年、1652年には、戸次庄左衛門(べつきしょうざえもん)ら複数の牢人が老中を暗殺しようとしましたが、これも失敗に終わりました(承応の変)。

 

武断政治から文治政治へ

武断政治によって、牢人が増加し治安が悪化、さらに、反幕府的な事件も立て続けに起こったことで、江戸幕府は武力で押さえつける武断政治は不満や反乱のもとになり、安定した統治はできないと考えるようになりました。

 

そこで、4代将軍家綱から武力ではなく教育や学問によって国を治める文治政治(ぶんちせいじ)へと移行することになりました。

 

文治政治で特に朱子学を奨励したのは、朱子学は上下関係や礼儀を重んじるため、幕府に従う人材を育成するのに都合が良く、家臣の統制をとりやすかったからです。

 

この武断政治から文治政治への流れは自然なものでした。

 

関ヶ原の戦い、大坂の陣と家康が江戸幕府を開いた当初は戦国時代を引きずって、まだまだ安定した世の中ではありませんでした。そのため、大名を統制し安定した江戸幕府の基盤を築くためには乱暴なくらいの武力が必要でした。

 

しかし、徳川将軍が3代まで続いたころには幕府の支配体制も整い、武力に頼る必要がなくなりました。

 

逆に、その安定を維持するためには、不満や反乱のもとになる武断政治はかえって命取りになります。そこで、朱子学によって幕府に従う人材を育てる文治政治へと変わっていったのです。

 

武断政治と文治政治の違い 

(徳川家綱 出典:Wikipedia)

 

 

武断政治は、徳川家康、2代秀忠、3代家光が行っていた武力によって家臣を統制する政治。大名たちに改易など厳罰をあたえることで反抗できないようにし、統制を図りました。

 

一方の文治政治は、4代家綱をはじめとし5代綱吉、6代家宣、7代家継が行っていた朱子学(儒学)によって統制する政治のことです。

 

朱子学の学者たちは幕府や諸藩の重要ポストに就いて、政治に参加しました。

 

武断政治と文治政治の違いを簡単にいうと、人を統制する際、武力に頼るか、学問に頼るかの違いといえます。

 

 

まとめ

・武断政治は、徳川家康から3代将軍家光が行っていた武力で家臣を統制する政治のこと。

・幕府に反抗したり、武家諸法度に違反した大名には改易などの厳罰を下した。

・厳罰には、改易・減封・転封があった。

・武断政治によって多くの大名家が取り潰され、40万人もの牢人をだした。

・慶安の変や承応の変など牢人の反乱計画等によって武断政治から文治政治へ移行した。

・文治政治は、4代家綱~7代家継が行っていた朱子学(儒学)によって統制する政治。

・武断政治と文治政治の違いは、人の統制を武力に頼るか、学問に頼るかの違い。

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