【八月十八日の政変とは】わかりやすく解説!!なぜ起こった?七卿落ちとの違いなど

 

今回は、江戸時代末期の幕末、1863年9月30日(文久3年8月18日)に起きた会津藩・薩摩藩が長州藩に対して起こした反クーデター事件 八月十八日の政変。

 

今回はそんな『八月十八日の政変』についてわかりやすく解説していきます。

 

八月十八日の政変とは

(政変決行の場所『堺町御門』 出典:Wikipedia

 

 

八月十八日の政変とは、1863年9月30日(文久3年8月18日)、天皇を巻き込んでクーデターをたくらむ長州藩・三条実美らの一部公家を、薩摩藩・会津藩・孝明天皇らが阻止した反クーデターのことをいいます。

 

過激尊王攘夷派の長州藩と、公武合体派(穏健攘夷派)の薩摩藩・会津藩の対立から生まれた政変です。

 

※文久の政変や禁門の政変とも呼ばれています。

 

八月十八日の政変が起きるまで

 

 

八月十八日の政変が起きるまで、長州藩と薩摩藩、そして朝廷と幕府には一体なにが起きていたのでしょうか。

 

①薩摩藩と長州藩

薩摩藩では、藩主の島津斉彬が一橋派の大名らとともに幕府の体制改革、雄藩の政治参加を実現し、日本の開国を進めようとしました。

 

しかし、1858年(安政5)の安政の大獄以前に死去してしまい、弟の久光がその遺志を引き継ぐことになりました。

 

島津久光の狙いは、兄の遺志通り、朝廷と幕府を結びつける「公武合体」の政策を実現することでした。

 

公武合体とは、通商条約調印などをめぐって意見が分裂してしまった朝廷(公)と幕府(武)を結びつけ、もう一度強い権力を持った幕府にしようという政策のことです。

 

 

一方、一時は開国論で朝廷と幕府の間の仲立ちに乗り出そうとしていた長州藩ですが、尊王攘夷派が現れ、力を得たことで、藩内の開国論は敗れ、藩論は攘夷に変わります。

 

攘夷とは、外国との貿易はせず、外国人を国内に入れず鎖国を守ろうという考え方です。

 

長州藩の尊王攘夷派は、薩摩藩と連携しようという計画を持っていましたが、島津久光が1862年(文久2)5月、薩摩藩士粛清事件(寺田屋事件)にて薩摩藩の尊王攘夷派を粛清したことにより、その企ては潰されてしまいました。

 

②文久の改革

1862年(文久2)、島津久光や公武合体派の公卿らの働きにより、江戸幕府は文久の改革を行います。

 

改革の内容は、一橋家当主・一橋慶喜を将軍後見職に任命するなどした人事改革、参勤交代の内容をゆるくするなどを決定した制度改革です。

 

しかし、この改革により、島津久光ら薩摩藩や会津藩の公武合体派と、長州藩の尊王攘夷派の対立はより激しさを増していったのです。

 

 

③尊王攘夷派の圧倒

島津久光らの働きによって文久の改革は成し遂げられましたが、長州藩は「すぐにでも攘夷を実行すべきだ」と主張します。

 

その主張は朝廷内にも広がり、三条実美や姉小路公知ら尊王攘夷派の公家も同じように主張していきました。浪人が全国から京都に集まり「天誅」(天皇の代わりに日本の為にならない人を殺すこと)が頻繁に起こりもしました。

 

薩摩藩を支持していた朝廷の岩倉具視も、三条実美や姉小路公知らによって弾劾を受け、辞職に追い込まれてしまいました。三条実美らは朝廷内でどんどん発言力を強めていったのです。

 

こうして、公武合体派の薩摩藩らは、長州藩などの過激尊王攘夷派の巻き返しにより、圧倒されてしまいました。

 

八月十八日の政変の決行

①天皇の攘夷親征計画

1863年(文久3)5月、幕府が朝廷と約束した攘夷の実行を皮切りに、長州藩はアメリカやフランスなどの列強諸国に下関の海峡で砲撃をしかけます。

 

しかし、幕府は攘夷の実行を指示した時から「圧倒的な戦力差がある列強諸国には敵わない」と通達し、穏健な攘夷方針を示していました。

 

これには諸藩も同調し、過激な長州藩は孤立してしまいます。

 

長州藩は「自分たちだけでは列強相手に攘夷を実行しても勝ち目はないが、全国一丸となれば勝てるかもしれない。

 

しかしそれには、天皇自らが攘夷親征(天皇自身が攘夷のために戦いに行くこと)しなくてはいけない」と考えます。

 

しかし、時の天皇、孝明天皇は、攘夷思想は持つものの、暴走する長州藩やそれに同調する公家に嫌気がさしていました。

 

攘夷戦争を望むつもりもないし、幕府に政治を任せるのも止めるつもりはなかったのです。

 

この頃、天皇らは長州藩側に付いている三条実美らを排除せよという秘密の勅命を薩摩藩に送っていました。

 

しかし、薩摩藩側は「機はまだ熟していない」という考えで、このとき朝廷のある京都に行くことはありませんでした。

 

 

②薩会同盟

他の藩や幕府に対しても攻撃的になった長州藩の暴走に、同じ攘夷派の諸藩もついていけない状態が続いていました。

 

そしてついに、大和行幸の詔(攘夷祈願のために天皇の祖先である神武天皇のお墓などに参拝すること)が発布されるのです。

 

しかし、この行幸は天皇の意志によるものではありませんでした。

 

時を同じくして、京都の薩摩藩邸は本国(鹿児島)からの出兵を待たず、会津藩に長州藩を倒すための協力を求めました。

 

そして、両藩は薩長同盟を結び、長州藩ひきいる急進攘夷派の企てを阻止するための反クーデターを企てたのです。

 

 

③八月十八日の政変の発生

1863年9月30日(文久3年8月18日)午前4時頃、諸藩兵が御所(天皇の住まい)の九門を固めます。

 

この政変に参加し、兵を動員した藩は薩摩藩ほか、会津、備前、阿波、因州、米沢、淀など含んだ30藩近く上りました。

 

こうして、大和行幸は延期され、三条実美ら急進攘夷派公家の禁足(外出を禁じること)・他人との面会禁止、国事参政など朝廷の役職が一部廃止されることが決定しました。

 

また、朝廷や薩摩藩らによって、長州藩の朝廷警備の任務をクビにし、京都からの退去を勧告することが決まりました。

 

④七卿落ち

政変の翌日、失脚した公家のうち三条実美、三条西季知、四条隆謌、東久世通禧、壬生基修、錦小路頼徳、澤宣嘉の以上7名は禁足を破り、長州藩の軍勢約1千とともに長州へ下りました。

 

これを「七卿落ち」といいます。

 

八月十八日の政変の影響

①横浜鎖港

八月十八日の政変後、朝廷は改めて諸藩に対し、幕府の命令は待たずに攘夷を実行するよう命じ、うやむやになっていた横浜港を鎖港する(外国船を港に入れない)ことを幕府に求めました。

 

孝明天皇の攘夷の意志は固く、それは政変後でも変わっていなかったのです。

 

薩摩藩の島津久光は、朝廷の中川宮朝彦親王に対し、朝廷の確かな方針と体制の確立を申し入れ、幕府の改革に続いて、朝廷の改革を行い、公武合体をさらに進めていこうと模索していました。

 

②参預会議

天皇の攘夷思想のもと「戦争は避けて、日本のために攘夷を行う策はないだろうか?」と、天皇は島津久光に相談をします。

 

久光は「列強諸国に渡り合うほどの軍事力はないので、開港するかしないかの選択権は今の日本にはない。今は軍備を充実することに努め急いで攘夷実行をするのは控えるべきだ」という意見を述べます。

 

そして、天皇に公武合体の方針を示し、この考えに賛同する諸大名に協力を求めました。

 

こうして、島津久光や徳川慶喜などが「朝廷参預」という職に任命され、朝議(朝廷の会議)に参加することになりました。

 

しかし、この参預会議も横浜鎖港の問題をめぐって対立し、わずか2ヶ月で解体されました。

 

③池田屋事件と禁門の変

京都を追い出された長州藩は失った地位の回復を狙っていましたが、政変の翌年1864年(元治元)7月8日、京都で起きた長州藩や土佐藩などの尊王攘夷派の志士が、新撰組に襲撃されるという「池田屋事件」をきっかけに、京都へ出兵します。

 

 

そして、翌月の8月20日、京都守護職の松平容保らを排除することを目的として、同じく京都市中で幕府や会津藩、薩摩藩などと市街戦を繰り広げた「禁門の変」というクーデターが起きました。

 

このクーデターで長州藩は敗北し、朝敵(朝廷の敵)として幕府や朝廷と敵対することになるのです。

 

 

まとめ

 八月十八日の政変とは、過激尊王攘夷派の長州藩と一部公家によるクーデターを会津藩・薩摩藩、孝明天皇らが阻止した反クーデター。

 長州藩は尊王攘夷を、薩摩藩は公武合体を推していた。

 薩摩藩の島津久光が文久の改革を推し進め、長州藩との対立が深まった。

 尊王攘夷派の三条実美などの公家が長州藩に同調し、朝廷内でも尊王攘夷派の力が強まった。

 天皇による攘夷親征計画を長州藩が企てた。

 薩摩藩と会津藩が同盟を組み、中心となって計画を阻止しようとした。

 失脚した公家7名が長州藩に下ったことを「七卿落ち」という。

 池田屋事件をきっかけに、長州藩は京都へ出兵し、禁門の変で幕府側と対立する。