【桜田門外の変とは】簡単にわかりやすく解説!!井伊直弼の首をとった犯人は?

 

今では警視庁や検察庁などの官庁街が目の前にある東京桜田門。

 

しかし、約160年前にはこの地で幕府の実質のトップが襲撃される事件がありました。

 

今回は幕府を揺るがす大事件『桜田門外の変』について簡単にわかりやすく解説していきます。

 

桜田門外の変とは

(桜田門外の変 出典:Wikipedia

 

 

桜田門外の変とは、1860年(安政7年)に起きた幕府のトップである大老だった井伊直弼桜田門外で襲撃して暗殺した事件のことです。

 

犯人は、関鉄之介を始めとする水戸浪士17人、薩摩浪士1人でした。

 

この事件によって幕府の権威は揺らぎ始めました。

 

桜田門外の変が起きる前の幕府の状況

(黒船来航の様子)

①将軍跡継ぎ問題

ペリーが来航して日本が開国すると幕府はとある問題で揉めていました。

 

当時の将軍は徳川家定という人がしてきましたが、この人は病弱で子供もいないため幕府は跡継ぎを決めなければいけませんでした。

 

当時の有力大名だった薩摩藩主島津斉彬や水戸藩主徳川斉昭などは、有能で評判だった水戸徳川家出身で一橋家に養子に出された一橋慶喜を支持し、井伊直弼や大奥などの保守的な人は徳川本家と血が繋がっている徳川慶福を支持していました。

 

 

②戊午の密勅と安政五年の政変

(井伊直弼 出典:Wikipedia)

 

 

1858年4月に井伊直弼は幕府の最高職である大老に就任しました。

 

大老に就任してからは朝廷に無断で日米修好通商条約を締結したり、徳川慶福を第14代将軍とするなど無理矢理自分の意見を押し通しました。

 

 

もちろん朝廷はこれに不満を持ちます。まぁ当然といえば当然ですけどね。

 

当時の天皇である孝明天皇は一橋派の水戸藩に対して、『幕府許せないよね!公武合体して攘夷を成し遂げようよ!』という密勅を水戸藩の人に渡します。

 

しかし、この密勅がバレてしまい、さらに水戸藩主である徳川斉昭を始め、松平春嶽などの一橋派の大名が江戸城に勝手に来たことを理由として謹慎処分を受けてしまいました。

 

この安政五年の政変によって有力な一橋派の人が幕府から追放されてしまいます。

 

③安政の大獄

井伊直弼は戊午の密勅が幕府に無断で水戸藩に勝手に出されたことに激怒して関白を始め公家衆を処罰します。

 

さらに、橋本左内や吉田松陰などの攘夷派の武士たちも処刑などの処罰を受けてしまいました。

 

この一連の処罰のことを安政の大獄といいます。

 

 

桜田門外の変の勃発

(外桜田門 出典:Wikipedia

①桜田門外の変の計画

もちろん、安政の大獄による大量処罰はいろんな人を敵に回してしまいます。

 

特に一番安政の大獄によって被害を受けた水戸藩は特に恨みを持つことになります。

 

そして水戸藩を脱藩して江戸にいた水戸浪士は井伊直弼を暗殺する計画を作ります。

 

襲撃するメンバーは関鉄之介を始め水戸浪士17人と薩摩浪士1人です。そして、前日には藩士をやめる手紙を届け準備万端にし、運命の3月3日を迎えることになるのです。

 

②運命の3月3日

1860年3月3日、井伊直弼は桃の節句(ひな祭り)の行事のために江戸城に向かいます。

 

この日は季節外れの雪が降ったりして、井伊直弼が藩主をしている彦根藩の護衛は雪用の衣装を着ていました。

 

さらに、この時代では大名行列を見るのが大変なブームになっており、民衆は武鑑という大名の一覧を見ることができるパンフレットみたいなものを片手に見物していました。

 

襲撃する人たちはこの大名行列を見る民衆のふりをして井伊直弼に近づきます。そして、彦根藩一行は桜田門に入るする前に水戸浪士に襲撃を受けてしまいます。

 

普通なら圧倒的に護衛が有利でしたが、最悪なことに護衛達はこの時雪用の衣装を着ていてさらに刀に雪よけの袋をかぶせていたためすぐに刀を抜くことができませんでした。

 

圧倒的に襲撃側が有利となった時に水戸浪士の一人である黒澤忠三郎という人が井伊直弼が乗っている駕籠めがけてピストルを撃ち込みました。

 

これによって井伊直弼は腰に銃弾を受けて重傷となり得意の居合い斬りを見せつけることなく動けなくなります。

 

そして、護衛の人たちが次々と戦闘不能となりついに駕籠めがけて刀を差し込みます。井伊直弼はすでに死にかけでしたがついに有村次左衛門の手によって首を斬られてしまいました。

 

この桜田門外の変はとある人によると『タバコを2つ吸い終わることには終わっていた』と書かれており、襲撃開始してから井伊直弼が殺されるまでわずか10分程度だったと言われています。

 

桜田門外の変による影響

①幕府の影響

井伊直弼の死により安政の大獄は終わりを迎え、井伊直弼によって処罰されていた一橋派の大名は幕府に復帰します。

 

しかし、幕府の最高職の人が水戸藩の一武士に襲撃を受けて殺されるという事実は幕府の威信を潰し倒幕ムードが加速する原因となってしまいました。

 

②彦根藩の影響

井伊直弼が藩主をしていた彦根藩は一時は改易(藩が潰されること)されかけますが、幕府が『井伊直弼は病気によって死んでしまった』としたためなんとか改易されずにすみます。

 

しかし、桜田門外の変自体は大名行列を見たい人たちがたくさん目撃していたため、こんな小細工が通用するはずがなく江戸では井伊直弼をからかう川柳が大流行しました。

 

その後彦根藩は石高を35万石から25万石に減らされ、さらに桜田門外の変の時に護衛をしていた人はかわいそうなことに全員死罪となってしまいました。

 

しかし、彦根藩自体はなんとか生き残り、廃藩置県を迎えることになるのです。

 

 

③水戸藩の影響

襲撃した人のほとんどが水戸藩の人だったため水戸藩側は喜ぶどころか『浪士らは脱藩者ゆえ大法に即し処置されたい、関係者は水戸藩でも探索し召捕るつもりである』と幕府に言って関鉄之介を始め襲撃したメンバーの7人を斬首刑に処しました。

 

水戸藩からしたらいい迷惑ですよ。ほんとに・・・。

 

その後水戸藩の攘夷派は天狗党という組織を作って尊王攘夷運動をすることになります。

 

 

桜田門外の変の小話

桜田門外の変が起こった109年後である1968年、襲撃側の本拠地の水戸市と井伊直弼が藩主として治めていた彦根市が親善都市となりました。

 

しかも、この当時の彦根市長は井伊直弼の子孫である井伊直愛という人でした。

 

桜田門外の変このようにつながっているのです。

 

まとめ

・桜田門外の変は井伊直弼が水戸浪士によって襲撃され暗殺されてしまった事件のこと。

・井伊直弼は安政の大獄によって様々な人から恨みを買っていた。

・桜田門外の変によって幕府の威信を潰してしまうことになってしまい、倒幕ムードが加速する原因となった。