日本各地の米や物資を“将軍のおひざもと”である江戸、“天下の台所”とよばれた大阪、この二大都市に運ぶ役割を担った海の航路「西廻り航路」と「東廻り航路」。

 

今回は、江戸時代の経済を支え、発展させた「西廻り航路」と「東廻り航路」についてわかりやすく解説していきます。

 

「西廻り航路」と「東廻り航路」の違い

 

 

車も鉄道もない江戸時代。

 

一度にたくさんの荷物を運ぶために力を発揮した交通機関は、でした。

 

そのため、日本各地の港を結ぶ海の航路が開かれ、物資を運ぶ船が行き来しました。

 

「東廻り航路」と「西廻り航路」は、東北地方の年貢米(年貢として納める米)を将軍の城下町江戸や商業の中心地大坂に運ぶため、17世紀後半、4代将軍徳川家綱の時代に整備された海の航路です。

航路

東廻り航路出羽の酒田(山形)から太平洋側を南下し江戸へ向かうルート。

西廻り航路出羽の酒田(山形)から日本海側を南下し瀬戸内海を通って大阪へ向かうルート。

 

東廻り航路と西廻り航路の違いは、文字通り、太平洋側を通る東廻りか、日本海側を通る西廻りかの違いです。

 

「西廻り航路」と「東廻り航路」の背景・目的


①経済が活性化した江戸時代

戦国の世が終わり、江戸時代に入ると人々の生活も徐々に安定し、経済が活発になりました。

 

陸路では、江戸を起点に各地方へとつなぐ、東海道奥州街道日光街道中山道甲州街道五街道を整備。手紙や荷物を運ぶ飛脚が発達しました。

 

一方、海路では、東北や北陸などの遠方から、大量の物資を江戸や大阪に運ぶ需要が増え、これまでの近距離の航路だけではなく、全国各地をつなぐ、長距離の航路が必要になりました。

 

 

②「西廻り航路」と「東廻り航路」が発達した理由

物流における江戸幕府の長年の課題だったのが、東北地方にある幕領(幕府の領地)の年貢米を安全かつ大量に江戸へ届ける輸送ルートの確保でした。

 

そこで幕府は、長年の課題を解決すべく、東北地方から年貢米などの物資を江戸や大阪に“陸路への積み替えなしで運べる”直通ルート「西廻り航路」、「東廻り航路」を整備することにしました。

 

これまでの海路と陸路を併用して運ぶルートと比べ、海路一本で目的地までいける直通ルートは手間も省け、費用も削減できました。

 

「西廻り航路」と「東廻り航路」を整備した人物

(河村瑞賢の銅像 出典:Wikipedia

 

 

幕府が、航路の整備を任せたのは、お金持ちの商人だった河村瑞賢(ずいけん)という人物。

 

瑞賢は、伊勢(三重)の百姓出身。

 

江戸に単身やって来て、日雇い労働者から材木商までのぼりつめ、さらに幕府から特権を認められた御用商人となりました。

 

その身一つで巨万の富を築いた“できる男”です。

 

瑞賢が幕府の御用商人となるきっかけになったのが、16571月に発生し、江戸の街を焼き尽くした大火事“明暦の大火(めいれきのたいか)”。

 

瑞賢は、焼け野原になった江戸の町の土木建築を請け負ったことで、大儲けしたばかりか、幕府との“太いパイプ”もできたのです。

 

それをきっかけに、幕府の一大公共事業である「西廻り航路」と「東廻り航路」の整備を任されることになりました。

 

「西廻り航路」と「東廻り航路」の内容

 

①東廻り航路ルートの詳細

東廻り航路は、1671に瑞賢が整備。

 

航路は、出羽の酒田(山形)から秋田・青森・津軽海峡を越えて、太平洋へ出るルートへ。

 

そして太平洋側を南下し、銚子(千葉)から房総半島をまわり、相模の三崎・伊豆の下田を経由して、江戸へ入港するルートです。

 

東廻り航路を整備する前は、銚子(千葉)から川船に積み替え、利根川、江戸川を通って江戸に物資を運んでいました。

 

ちなみに東廻り航路は、当初の出発地を荒浜(宮城)からの出発でした。

 

江戸後期からは出羽の酒田(山形)へと整備され、出発地が変更になりました。

 

②西廻り航路ルートの詳細

西廻り航路は、1672に瑞賢が整備。

 

航路は酒田(山形)から日本海側をずーっと南下し、下関(山口)・瀬戸内海を通って大阪へ向かう長距離ルートです。

 

西廻り航路を整備する前は、敦賀(福井)で船から積み荷を降ろし、その荷物を馬などに積み替え陸路で琵琶湖まで運び、琵琶湖から小型船に再び積み替え、淀川経由で大阪に入るルートでした。

 

聞くだけで大変そうなルートですよね。

 

瑞賢はこの積み替えにかかる労力と時間、費用の代わりに下関までの大まわりにはなりますが、積み替えなしでいける西廻り航路を開拓しました。

 

積み替える必要がなくなったことで、料金も安くなった上、一度に大量の物資が大阪に運べるようになりました。

 

しかし、その一方で、敦賀や琵琶湖の港町が衰退するきっかけにもなりました。

 

特に、西廻り航路で活躍したのが、北前船(きたまえぶね)でした。

 

北前船は荷物を運ぶ運賃で稼ぐのではなく、船主が商品を買いつけ訪れる港で売りさばいて利益を得る、いわゆる買い積み方式が特徴でした。

 

例えば、北海道や東北で昆布や海産物を仕入れて大阪で売り、大阪では塩や酒を仕入れて他の港で売りさばきました。

 

「東廻り航路」より「西廻り航路」が発展

 

 

18世紀の初め頃になると、東廻り航路に比べ、西廻り航路が盛んに利用され、発達しました。

 

その理由をいくつか挙げてみると・・・

西廻り航路が発展した理由

・日本海側は古くから航路が発達していて経済力のある良港がいくつもあった。

・冬の間以外は潮が安定して航海しやすかった。

・波の穏やかな瀬戸内海を利用していた。

・天下の台所とよばれ、各地から物資が集まる商業都市大阪とつながっていた。 

・荷物を安く運ぶことができた。 などなど・・・

 

西廻り航路の方がメリットがたくさんありました。

 

一方、太平洋側を通る東廻り航路に人気がなかったのは、江戸より北に経済の発達した街があまりなかったこと、北へ向かって流れる黒潮に逆らって、江戸へ向かって南下していく航海が危険だったことなどが理由でした。

 

まとめ

・東廻り航路と西廻り航路は、東北地方の年貢米を大都市の江戸や大坂に運ぶために整備された海の航路。

・東廻り航路のルートは、荒浜(宮城)から太平洋側を南下し江戸へ。のちに荒浜から酒田(山形)まで延長された。

・西廻り航路のルートは、酒田(山形)から日本海側を南下し、下関(山口)、瀬戸内海を通って大阪へ向かう長距離ルート。

・幕府の御用商人、河村瑞賢によって、1671年東廻り航路、1672年西廻り航路が整備された。

・18世紀の初め頃は、東廻り航路より西廻り航路が多く利用された。




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