今から約140年前、琉球王国という国が沖縄本島を中心に存在していました。

 

琉球王国は日本と中国・朝鮮半島・東南アジア諸国などをつなぐ交通の重要な拠点でした。

 

そのため、琉球王国では独自の文化が発達し、日本とは少し違った言語が使われました。

 

今回は『琉球王国の歴史』について、簡単にわかりやすく解説します。

 

琉球王国とは

(復元された首里城 出典:Wikipedia

 

 

琉球王国とは、現在の沖縄県にあたる場所に成立した王国です。

 

琉球王国は1429年、日本では室町時代のころに誕生しました。

 

その後、琉球王国は東アジアや東南アジア重要拠点として発展。そして1609年、現在の鹿児島県を支配していた薩摩藩(島津家)が琉球王国を征服しました。

 

琉球王国は薩摩藩の支配下でも存続を許されましたが、1879年の沖縄県設置により琉球王国は廃止されました。

 

琉球王国の歴史【成立から琉球処分まで】

①琉球王国の成立

日本で鎌倉時代の末から室町時代のはじめにあたる14世紀前半、沖縄本島には3つの王国がありました。北から「北山」「中山」「南山」の3王国です。

 

1429年、中山王の尚巴志は、北山と南山を滅ぼして沖縄本島を統一しました。

 

こうして、沖縄本島を統一した尚巴志は首里城を都と定めます。

 

②琉球王国と明の関係

琉球王国ができたころ、中国を支配していた王朝は明でした。尚巴志は明に貢物を献上し琉球の王として認めてもらいました。

 

明に琉球王として認めてもらうことは尚巴志にとってとても大事なことでした。

 

その理由の一つは、明の権威を使うことで王国の支配を固めたかったからです。自分のバックに明がいることを国内でも伝えたかったのでしょう。

 

もう一つの理由は、明と貿易をするためでした。

 

なぜ、貿易をするために明に認めてもらわなければならなかったでしょう。それは、明が貢物を持ってきて、明に従う意思を示した国の王とだけ貿易する朝貢貿易のしくみをとっていたからです。

 

そのため、明の家来として認めてもらう必要があったのです。

 

そうして認められた朝貢貿易の利益は莫大なもので、尚巴志はこの利益を得るためにも明に王として認めてもらう必要があったのです。

 

③琉球王国の繁栄

(中国への琉球王国の進貢船)

 

 

琉球王国は15世紀から16世紀にかけて、大きく発展しました。

 

どうして発展したかというと、琉球が中継貿易を行ったからです。

 

中継貿易とは、例えば、琉球王国が東南アジアから香木などを輸入します。香木は琉球ではあまり使われませんが、明にもっていけば高く売れます。

 

そのため、琉球王国は明を中国に輸出して大きな利益を上げました。

 

ここで、一つ疑問が出てきます。明の商人が琉球王国を通さずに、自分たちで東南アジアに買い付けに行けばいいのではないか?

 

しかし、明は自国民が海外に出て貿易することを禁じていました。そのため、海外の品物は、琉球王国を含む海外の商人が明に持ち込む以外、明に輸入されることはなかったのです。

 

明の朝貢貿易や海外貿易の禁止政策をうまく利用して、琉球王国は繁栄したのです。

 

このころの琉球王国の繁栄をあらわしているのが、「万国津梁之鐘」です。

 

この鐘には「琉球が万国の懸け橋として品々を運ぶ」という貿易立国の志が誇り高く刻まれています。

 

④薩摩藩による支配

1609年、徳川家康の許可をもらった薩摩藩は琉球王国を武力で征服しました。

 

薩摩藩は琉球王国で検知を実施。年貢を上納させることを決めました。

 

しかし、琉球王国は滅ぼされることなく存続を許されました。

 

なぜでしょうか?じつはそれにも、貿易がかかわってきます。

 

明(のちに清)と貿易できるのは、貢物を献上した国王に限ります。仮に、薩摩藩が明に貢物を献上しても、薩摩藩主は王ではありません。

 

そうなると、明は「貿易の資格がない」とみなします。

 

貿易を続けさせるために、琉球王は存在を許されたといってもいいでしょう。

 

つまり、形の上では琉球王国は存在し、明に服従して貿易を行います。しかし、実際に琉球を支配しているのは薩摩藩という状態なのです。

 

このように、琉球王国が明(清)と薩摩藩の両方に服従する関係を両属関係といいます。

 

⑤琉球王国と江戸幕府の関係

琉球王国は江戸幕府の将軍の代替わりごとに使者を江戸に派遣しました。これを、慶賀使といいます。

 

一方、琉球王国の国王が交代すると、そのことを報告するための使者を江戸に送りました。こちらは、謝恩使といいます。

 

どちらも、薩摩藩が背後にいたのは言うまでもありません。

 

⑥ペリー来航

1853年、のちに日本を開国させることになるペリーが琉球王国にもやってきました。

 

その後、琉球王国も幕末・維新の波に飲み込まれることになります。

 

 

⑦琉球処分

明治維新の後にできた明治政府は、日本国の国境を画定させる作業を急いでいました。

 

この時、琉球王国が日本と清のどちらの領土であるかで両国がもめます。

 

このため、明治政府は琉球王国を日本領にすることを急ぎました。

 

1872年、琉球王の尚泰を琉球藩王に任命します。日本が琉球王の任命権を持っているというアピールです。

 

(琉球藩の印 出典:Wikipedia

 

 

1874年には琉球藩は内務省の直轄地とされます。翌年、琉球藩は清との関係を存続させてもらえるよう命じ政府に働きかけましたが、明治政府はこれを拒否。

 

1879年に尚泰を東京に移住させ、琉球王国を廃止。これに代わって、沖縄県を設置しました。これを、琉球処分といいます。

 

なお、最後の琉球国尚泰は侯爵に叙せられ、子の尚典は貴族院議員を務めました。

 

 

琉球王国独自の文化や言語

①琉球王国の文化

琉球王国の文化は、最大の貿易相手国だった明や清の影響を強く受けていました。

 

例えば、中国風の名前を別名として持っていたり、首里城などの建築が中国風だったりするのもそのためです。

 

一方、書き言葉は漢字・かな交じりの和文が使われていたり、神社が立てられていたりするなど日本の影響も数多くみられます。

 

琉球王国の文化は中国と日本、両方の文化が入り混じったものだといえます。

 

②「おもろそうし」

おもろそうし」は1531年から1623年にかけて編纂された琉球最古の歌謡集です。

 

「おもろ」とは琉球の神歌のことです。

 

沖縄の人々の宗教的な感情を表現して舞い踊ったもので、漢字・かな交じり文で書かれています。

 

③三線

(明治から戦前期ごろの三線の様子)

 

 

三線は琉球王国や奄美諸島に伝わる弦楽器です。

 

形は三味線とよく似ていますが、胴に蛇皮を張っているのが特徴で、蛇皮線ともいいます。

 

④琉球語

(琉球語"現在の方言"で書かれた標識)

 

 

琉球語は琉球王国で用いられた言語のことです。

 

現在では、沖縄方言として知られています。

 

使用される範囲は、奄美大島・沖縄諸島・宮古・八重山列島などです。

 

まとめ

・琉球王国は、尚巴志によって1429年に建国された。

・琉球王国は、明との朝貢貿易によって繁栄した。

・琉球王国は、東南アジア諸国や日本・中国などを結ぶ中継貿易を行った。

・江戸時代、琉球王国は薩摩藩に支配された。

・琉球王国は、薩摩藩支配下でも存続を許され、明・清との貿易をつづけた。

・琉球王国が、薩摩藩と明・清の両方に従う関係を両属関係という。

・琉球王国は、将軍の代替わりに慶賀使を、国王の交代ごとに謝恩使を江戸に送った。

・琉球王国最後の王の尚泰が東京移住を命じられ、琉球王国は廃止された。

・琉球王国廃止後、沖縄県が設置された。これを、琉球処分という。

・「おもろそうし」は琉球最古の歌謡集。

・三線は琉球独自の楽器。




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