【張作霖爆殺事件とは】わかりやすく解説!!なぜ起きた?事件の経過や影響など

 

日本の重大な転換点の満州事変。

 

日本が国際的に孤立してしまった事件のことです。

 

実はこの事件には『張作霖(ちょうさくりん)爆殺事件』という事件がきっかけでした。

 

今回は日本がついに満州に手を出してしまい、どんどん日本軍が暴走し始める張作霖爆殺事件についてわかりやすく解説していきます。

 

張作霖爆殺事件とは?

(爆破事件の現場 出典:Wikipedia

 

 

張作霖爆殺事件とは、1928年(昭和3年)列車に乗っていた張作霖が日本の関東軍によって爆破、暗殺された事件のことを言います。

 

この事件は満州に勢力を伸ばしたい関東軍が起こし、この事件以降日本はどんどん満州に侵攻していきます。

 

ここからは張作霖爆殺事件は起こるまでの背景・事件の経過・影響などを詳しく解説していきます。

 

張作霖爆殺事件が起こった背景や目的

 

 

満州軍人「張作霖」と当時の中国についてみていきましょう。

 

満州がある中国はこのころ各地にいた軍閥というグループが各地でバンバン争っており、いわゆる内乱状態でした。

 

今回の主人公の張作霖も軍閥のひとつであり満州を支配していました。

 

しかし、中国で一番勢力があった蒋介石率いる国民党軍が中国を統一するため、国民党軍の南京という場所から北に進軍しました。

 

このことを北伐と呼びます。

 

 

張作霖は『国民党軍が北伐を成功したら俺のポストがなくなる!』と焦り、仲間と一緒に北京に向います。

 

張作霖は中国の中でも特に日本と仲が良く、度々助け合う仲でした。

 

しかし、張作霖は北京に入ったときに『より援助されたい!』と思い日本を捨てて欧米諸国と仲良くなっていきます。

 

張作霖は当時日本が運営していた南満州鉄道に対抗するために張作霖独自の鉄道を作っていこうと考えていきます。

 

もちろん日本はこの状態が気に入りませんでした。

 

そして日本は張作霖のことをどんどん嫌いになり、排除の考えが濃厚になっていきました。

 

張作霖爆殺事件の発生

(張作霖 出典:Wikipedia

 

 

欧米諸国から支持を得た張作霖(ちょうさくりん)。

 

しかし国民党軍に負けてしまい、北京から撤退します。

 

そして1928年6月4日、瀋陽駅途中の鉄橋で突然乗っていた鉄道が爆発して張作霖はこの世を去ってしまいます。

 

 

(張作霖が乗車していた列車 出典:Wikipedia

 

 

もちろん満州の中で一番トップの人が暗殺されたことは各国で衝撃を与えました。

 

結末から言ってしまえば犯人は関東軍です。

 

 

関東軍は張作霖がどんどん日本から離れていき、さらに日本の敵でもある国民党軍にあっさり負けてしまったため、張作霖の存在が邪魔でしかありませんでした。

 

もちろん関東軍はいちいち日本政府にいっても張作霖を殺すことにYESとするはずがないということはもちろん知っています。

 

つまり、この事件は日本政府に伝えず関東軍の独断でやったのです。

 

しかもこの当時の憲法である大日本帝国憲法には軍は天皇が動かす権利を持っている(統帥権)ため、天皇の命令をガン無視して勝手に事件を起こすのは憲法違反

 

そのため、関東軍はこの事件を日本で公表せずに満州某重大事件という形でバレないように報道したのです。

 

事件後の各地の反応

(1931年 張学良"中央の人物" 出典:Wikipedia

①満州での反応

張作霖が爆殺されたことによって満州の支配は張作霖の息子である張学良に移ることになります。

 

張学良は犯人は国民党軍ではなく、日本の関東軍であることを独自の情報網でキャッチしていました。

 

そして張学良は父を殺した日本に対して大激怒します。そりゃ、お父さんが殺されたら誰でもそうなりますよね。

 

張学良はこの事件以降、日本に対して反抗心丸出しの行動をします。

 

張学良は自分の拠点に一斉に青天白日満地紅旗を掲げます(青天白日満地紅旗は国民党の旗です)

 

 

(国民党の国旗 出典:Wikipedia

 

 

この意味は満州の支配権をなんと父の敵であった国民党軍に渡すというものでした。

 

敵の敵は味方ってやつです。

 

そして国民党軍はこのまさかの事態によって思わぬ形で中国を統一することができました。

 

その後、張学良は満州の支配がなくなった後も日本に対抗します。

 

張学良は日本を倒すため、当時国民党軍の敵であった中国共産党と仲良くしてもらおうと蒋介石を軟禁、承諾を得ます。(西安事件

 

こうして日本へと対抗していくのでした。

 

②日本の反応

 

 

関東軍は張作霖を爆破した後すぐさま満州を奪い取ろうとしましたが、張学良の抵抗によって見事に失敗します。

 

しかも張作霖を爆破したことによって逆に関東軍が不利になってしまいます。

 

そして張作霖が爆破されたということはすぐさま昭和天皇の耳に入ります。

 

昭和天皇は当時の首相であった田中義一に『これ許可なしに行われたテロだからすぐさま犯人を取っ捕まえて厳重に処罰しなさい!』と言い・・・田中は天皇に『すぐさま犯人を捕まえて軍法会議で処罰します!』と返事しました。

 

しかし、関東軍が猛烈に反対したためどうすることもできませんでした。

 

そして田中は天皇に『この事件は犯人ではなく、現地の関東軍司令官には警備責任がある』と言います。

 

要するに田中はテロを起こした犯人よりも関東軍のお偉いさんの方が悪いと言ったのです。

 

これに対して天皇は大激怒、「話が全然違うじゃないか!!!もうお前の話は聞かん!出て行け!」と言い田中を追い出します。

 

この当時、天皇から見放されれば首相はやっていけないので田中は首相を辞めることになりました。

 

張作霖爆殺事件の影響

 

 

関東軍は張作霖を爆破したことによって張学良は国民党軍についてしまい、国民党軍の影響力が満州まで広がり、関東軍は満州を手に入れるのはおろか逆に不利になってしまいました。

 

関東軍はこのままでは満州が完全に国民党軍のものになってしまい、日本における満州の支配力が完全になくなってしまうかもしれないと思い始めていきます。

 

当時満州は日本の経済を立て直すことができる日本の生命線とも言われるほど重要な土地で、日本にとっては貴重な資源である石炭や鉄鉱石などがバンバン取れるこの満州を手放すわけにはいかなかったのです。

 

そして日本は満州の支配を強引でも進めるために満州事変を起こして日本の傀儡である満州国を作ることになっていくのです。

 

 

まとめ

 張作霖爆殺事件とは、1928年に関東軍によって張作霖が暗殺された事件のこと。

 張作霖は日本と協力していたが欧米諸国と仲良くなっていき、日本を捨てていた。

 関東軍はこの張作霖の動きをみて徐々に関東軍を邪魔だと感じて張作霖を爆殺した

 張作霖の息子である張学良はこの事件以降国民党軍に味方をして国民党軍は中国を統一した。

 天皇は首相のこの事件に対する態度に激怒して首相を辞任させた。

 この事件以降、関東軍は焦り始めて5年後には満州事変を起こした。