【渡来人とは】簡単にわかりやすく解説!!時代や渡来人が伝えたもの

 

「“渡来人”といえば文字通りだよね!簡単!」と思う人がほとんどでしょう。

 

実際に中学などでは試験に出てもそんなに苦しむ用語ではなかったと思われます。

 

しかし、その内容を細かく説明できる人はあまり多くないのではないでしょうか。

 

そこで、今回はこの『渡来人(とらいじん)』について簡単にわかりやすく解説していきます。

 

渡来人とは?

 

 

渡来人とは、大きくとらえると「外国から渡来してきた人々」のことを指しますが、歴史用語では特に4~7世紀ごろに中国や朝鮮半島から日本に移り住んできた人々、およびその子孫のことをこう呼んでいます。

 

彼らは多くの技術や思想など、その後の日本に大きな影響を与える様々な文化を持ち込み、伝えていったのです。

 

日本への渡来

 

「渡来人」との関係をざっくり4つの時期に分けてみていきます。

 

①稲作の伝来 紀元前10~紀元後3世紀

教科書などでは紀元前3~4世紀頃[最近の研究では紀元前10世紀という説もある]といわれる弥生時代の始まりですが、大陸から移り住んだ人々からの稲作の伝来が大きくかかわっているのは周知のことですね。

 

 

ここでいう“大陸”ですが、昔は朝鮮半島からの伝来とされていましたが、近年稲の研究から、長江流域の稲作地帯からの朝鮮半島を経由しない直接の伝来説が有力となってきているようです。

 

この頃、稲作とともに青銅器鉄器などの金属器も伝えられ、銅剣銅矛も武器としてだけではなく、銅鏡銅鐸(どうたく)などのように、祭りの宝物として使われるようになっていったそうです。

 

②倭の五王 4~5世紀

中国では4世紀頃、北魏に分かれる南北朝時代となっており、また朝鮮半島では高句麗(こうくり)・百済(くだら)・新羅(しらぎ)で勢力を争っていました。

 

この頃、大和政権は朝鮮半島へ進出しており、朝鮮半島端の伽耶(かや)地域<任那(みまな)>や百済と組んで、高句麗や新羅と戦ったとの記録が残っています。

 

有名な高句麗好太王の碑文(こうたいおうのひぶん)ですね。

 

ちなみにこれは414年に好太王(広開土王:こうかいどおう)の功績を称えて建てられたものとのことです。

 

さらに宋の歴史書「宋書」の中には当時の倭王が倭の王としての地位と朝鮮半島南部での軍事的な指揮権を認めてもらうよう何度も手紙を送ったことが記されています。

 

この手紙を送った五王(讃さん・珍ちん・済せい・興こう・武ぶ)の内、武王は雄略天皇のことだともいわれています。

 

これらの交流を通して、多くの一族が渡来してきたようですが、中でも(はた)氏・東漢(やまとのあや)氏・西文(かわちのふみ)などが有名です。

 

③仏教の伝来と飛鳥文化 6世紀

朝鮮半島では、6世紀ごろになると百済や新羅が勢力を強め、任那は併合されてしまいます。

 

そして552[538年説もあり]百済から大和朝廷に仏像や経典が送られ、仏教が伝えられます。

 

これをめぐり有力豪族の蘇我氏物部氏の争いが起こり、結果蘇我氏が強大な力を持つようになるのですが、この仏教や儒学の考えを取り入れた政治が聖徳太子を中心に行われるようになります。

 

また、6世紀末隋が中国を統一することで遣隋使を送り、渡来人による知識の伝播のみでなく、積極的にこちらからも多くの知識を得ようとしていくのです。

 

 

この時期には日本で最初の仏教文化である飛鳥文化が栄えますが、そこで有名な法隆寺などの建築物も多くの渡来人の子孫によって造られていったのでした。

 

④白村江の戦いと朝鮮半島からの撤退 7世紀

7世紀の初めに高句麗への攻撃の失敗などが元で隋が滅び、が中国を統一すると、唐はさらに朝鮮半島への攻撃を進めていきます。

 

まず百済が唐と新羅の連合軍により滅亡させられました。

 

友好国であった関係で日本からも2万人以上の援軍をおくりますが、663年白村江の戦いで敗れてしまいます。

 

 

その結果、日本も朝鮮半島での勢力も失い、さらに大陸からの攻撃に備えることも必要になってしまいました。

 

ちなみに高句麗は百済滅亡から10年もたたずに滅亡し、朝鮮半島は新羅が統一してしまいます。

 

そのため、滅亡した国の貴族など多くの人々が亡命してくることになり、彼らも多くの知識や文化を持ち込み、また政治的にも当時の政権下で必要な人材となった人も多くいたようです。

 

渡来人の伝えたもの

 

上記でも少しずつ小出ししてきましたが、具体的に伝えられたものをまとめてみます。

 

◎技術面稲作

農業用ため池を造る技術(灌漑技術)・金属器

 

◎須恵器(すえき)

高温で焼くかたく黒っぽい土器

鉄製の農具・上質な絹織物を作る技術(養蚕や機織り)

馬,馬具(乗馬の技術)・寺院の建築技術など

 

◎学問・思想面

漢字・儒学・仏教・医学など

 

有名な渡来人

渡来人として特に有名な一族や、その功績を確認しておきましょう。

 

①秦氏(はたし)

新羅からきた氏族である秦氏は、土木技術や農業技術に優れていました。

 

各地に灌漑設備を整えて土地の開墾を積極的に行っていきました。

 

養蚕や機織りを広めたので「はたし」という呼び名は覚えやすいですね。

 

大和政権下で財政担当の役人として働いていたようですが、一族は畿内のみならず、中部や九州方面まで勢力を広げていたようです。

 

②東漢氏(やまとのあやうじ)

百済からの氏族である東漢氏ですが、中央政府では海外向け手紙の作成などの文書担当、外交担当などを行っていたようです。

 

さらに、製鉄や土器の生産技術を伝えたとされています。

 

③西文氏(かわちのふみうじ)

日本に「論語」を持ち込み、文字を伝えたとされる一族です。

 

文筆や算術に優れており、政府の中でも重要なポストについていたとのことです。

 

当時畿内の有力な氏族の約30%が渡来人だったと言われています。驚くべき数字と思いますが、交流がいかに盛んであったかの表れでもあるといえますね。

 

個人的に有名な人も少しあげますと、法隆寺の釈迦三尊像鞍作止利(くらつくりのとり)も聖徳太子の時代に活躍した渡来系仏師ですし、奈良期に日本へ正しい仏教の戒律を伝えに訪れ、唐招提寺を創った鑑真も勿論渡来してきていますね。

 

海外事情に詳しいことから、遣隋使や遣唐使の時は渡来系氏族の南渕請安(みなみぶちしょうあん)高向玄理(たかむこのくろまろ)も活躍しました。

 

渡来人と帰化人

元々「渡来人」は「帰化人」と呼ばれていたようです。

 

しかし、「帰化」という言葉に『君主の徳に教化・感化されて服従するもの』という中国の思想があるとのことで、当時の日本がまだ国として成り立ってない状態だったという点からも「そのような思想での移住はありえない!」ということで、帰化という言葉は不適切となったそうです。

 

渡来人のあれこれ

渡来人関連でいろんな説がありますが、ここでちょっと紹介してみましょう。

 

①渡来人はどうやって来たのか?

渡来人の移住してきた方法ですが、やはり海からということで船になるでしょう。

 

昔は丸太に乗ってきた?何ていう話もあったそうですが、流石に丸太はないですよね。

 

木製の簡単な船でも、黒潮や風の影響があれば最短一昼夜くらいで九州北部に流れ着くくらいの距離のようです。

 

数年前にNHKの番組で実験もしていたようです。

 

②天皇家と渡来人

“渡来人の子孫が天皇家”という説があるようですが、これは何とも言えないと思います。

 

神話的要素もありますし、古事記・日本書紀も後年のもので、伝説と伝承が入り混じっていますよね。

 

百済王の息子が日本書紀でいう天智天皇(中大兄皇子)であり、天智系が桓武天皇以降繋がっているので…という説もあるようですが、桓武天皇の母親が百済の出身であったというのは確かのようですね。

 

③大阪を創った渡来人

大阪の天王寺区付近には非常に寺院が多く、ここに渡来人が多くいた証ともいわれています。

 

九州に渡り、さらに瀬戸内海を北上した渡来人たちは、当時湿地帯だった大阪平野を先進土木技術によって住みやすい地に変えていったそうです。

 

この地域の豪族たちの勢力拡大にも、渡来人たちの先進技術などが大いに貢献したのかもしれません。

 

渡来人のその後

7世紀以降も多くの渡来人が移住してきますが、既存の渡来人たちはそれぞれの勢力地で土着し、また遠隔地の開発目的で関東や地方に送られた渡来人たちもその地で土着していきます。

 

そのような流れで、8世紀ごろには名字を日本風に変えたりして一見して渡来系と分からなくなり、9世紀にはいると渡来系の人と日本本来の人との融合も多くなり、「渡来人」としての扱いは希薄になっていくのです。

 

ちなみに、現在でも渡来人の末裔としては苗字でみていくこともできますが、例えば、東漢氏の一族には坂上、大蔵、原田、秋月など、秦氏の一族では長宗我部、島津、川勝など、百済系では大内、右田、黒川などがあります。

 

まとめ

 「渡来人」とは4~7世紀ごろに大陸から移住してきた人やその子孫のこと。

 弥生時代の始まりは、渡来人からの稲作の伝来に大きく関係している。

 大和政権の朝鮮半島進出や中国への朝貢の影響で多くの渡来人が一族で移住をしてきた。

 土木技術や土器の生産、養蚕や織物の技術など秦氏らによって伝えられ、彼らは朝廷でも非常に重用された。

 朝廷では仏教や儒学に基づく政治も行われ、漢字の伝来により文筆として西文氏なども活躍した。

 仏教と、さらに寺院建築技術も伝わり、日本最初の仏教文化である飛鳥文化が栄えた。

 後に地域に土着し、苗字を変え、渡来人は日本人と融合していくようになった。

 現在も、苗字から渡来系であるか否かを探ることができる。