日露戦争の勝利から敗戦まで日本はずっと朝鮮を支配していました。

 

それを統括していたのが、今回解説する朝鮮総督府と韓国統監府だったのです。

 

今回はそんな『朝鮮総督府と韓国統監府の違い』について簡単にわかりやすく解説していきます。

 

朝鮮総督府と韓国統監府の違い

 

まず最初に韓国統監府と朝鮮総督府の違いについてみていきましょう。

✔ 韓国統監府・・・第二次日韓協約によって保護国化した朝鮮を統治や監視するために置かれた機関のこと。初代統監は伊藤博文

 

✔ 朝鮮総督府・・・1910年の韓国併合によって日本の領土とした朝鮮を支配するために置かれた機関のこと。初代総督は寺内正毅(米騒動の時の首相でもある)

 

どちらも韓国の政治を行う機関というところでは同じですが、重要な違いは韓国が日本の領土になっているか保護国となっているかということ。

 

総督という役職は簡単に言えば植民地を支配する長官という意味でして、今でも元イギリスの植民地であったカナダやオーストラリアはトップの役職は総督となっているなど名残は少しだけ存在しています。

 

韓国統監府について

(統監府庁舎 出典:Wikipedia

①日露戦争による朝鮮の獲得

1905年、この年日本はロシアとの日露戦争において決定的な勝利とはいかないものの判定勝ちとなり、ある程度の権益をロシアから譲ってもらえる事になりました。

 

 

その中の権益の一つに韓国の存在していたのです。

 

こうして朝鮮の実質的な支配を世界から認められた日本は、お構い無しに韓国と第二次日韓協約を結ぶ事になりました。

 

第二次日韓協約の内容は様々ありますが、その中でも特に重要なのが外交権の剥奪

 

外交権というのは文字通り外交を行う権利のことなのですが、日本はこれを奪い取り韓国に関する全ての外交を取りまとめようとしたのです。

 

わかりやすく解説するとこの頃の韓国は子供、日本は大人という具合に日本が子供のやる事を規制するのと同様でした。

 

こうして日本は韓国が勝手に外交を行えなくなり実質的な保護国化にありました。

 

つまり完璧に韓国は日本の言いなりとなってしまい、日本はその韓国を統治するために統監府というものを朝鮮に置いたということです。

 

②朝鮮統監府の問題点

こうして日本は朝鮮を保護国にして、朝鮮統監府を置いたわけなんですが、そうなると必ず起こってしまうのが、朝鮮の国民の大反発です。

 

日本は第二次日韓協約を結んだ後でも朝鮮に対して圧力をかけ続けることを行なっていきます。

 

例えば、1907年に韓国がハーグ密使事件という事件を起こすと、日本は韓国に対する態度を強化します。

 

 

そして、第三次日韓協約にて韓国軍の解散と朝鮮の内政権を強奪。さらに、統監府により皇帝の退位を無理やり行わせ韓国は実質的に日本の植民地となりました。

 

しかし、これによってこれまで黙ってきた韓国人の怒りは大爆発します。

 

1909年には初代統監である伊藤博文が韓国人の運動家である安重根に暗殺されてしまうという大事件が引き起こされてしまいました。

 

 

(安重根 出典:Wikipedia

 

韓国統監府から朝鮮総督府へ

(国立中央博物館「旧朝鮮総督府庁舎」 出典:Wikipedia

 

 

こうして伊藤博文の暗殺まで進展してしまった韓国の抵抗運動でしたが、この一年後には日本は韓国併合を断行することとなります。

 

次はそんな韓国が併合されるまでと、韓国統監府から朝鮮総督府になるまでを見ていきましょう。

 

朝鮮に対する考えの違い

当時、日本には朝鮮に対する考えで「韓国を保護国化する派」と「韓国を完全に日本にしようとすると派」で分かれていました。

 

保護国化の代表的な政治家は伊藤博文。対して併合派の代表的な政治家は桂太郎・山縣有朋です。

 

これを見て「あれ?伊藤博文は併合派じゃないの?」と思うかもしれませんが、実はこれは大間違い。

 

伊藤博文は山縣有朋みたいに韓国を日本として大陸の影響を強めていこうとは考えず、韓国をあくまでも保護国として自治権ぐらいは与えようという考えでした。

 

しかし、義兵運動が過熱するにつれて保護国派の伊藤博文の心境にも変化が訪れます。

 

これを受けて桂太郎は伊藤博文に併合について説得。やむなしと思い返した伊藤博文はついに併合派に変わってしまったのでした。

 

さらに、トドメと言わんばかりに伊藤博文が暗殺。これによって併合派を止める政治家はどこにもいなくなり1910年、韓国は日本に併合されてしまったのでした。

 

こうして韓国は独立を訴えた義兵運動が返って独立を機会を失う結果となってしまい、韓国は地図から姿を消し、そして統監府に変わって新たに朝鮮を完全に支配する総督府がおかれることになりました。

 

朝鮮総督府について

(朝鮮総督府 出典:Wikipedia

 

 

こうして日本の一部となってしまった朝鮮。

 

そして日本となった朝鮮には統監府に変わって朝鮮総督府がおかれました。

 

次はそんな総督府がどのような政治を行って行ったのかを見ていきましょう。

 

①朝鮮の経済投資

日本は韓国を併合した後、朝鮮の経済振興に力を注ぐようになります。

 

日本政府は朝鮮に対して多額の国家予算をつぎ込み、生活水準を日本本土並みに向上させ、さらには鉄道・道路・電気などのインフラを整え、教育施設も整えていきました。

 

「ここまで韓国に投資するのはちょっと買いかぶりすぎじゃない?」と思うかもしれませんが、日本からしたら1910年の併合から韓国は日本の一部です。(韓国併合条約

 

 

日本政府からしたら韓国を日本と同化して日本の国力を上げていこうとしていったわけだったのです。

 

しかし、その一方で韓国人から土地を取り上げて日本の企業に分配されるという行為が行われ、朝鮮人と日本人の所得格差が生まれるという負の側面もありました。

 

②総督府による武断政治

こうして経済振興が行われていきましたが、朝鮮総督府は韓国人による独立運動を弾圧していきます。

 

日本からしたらこの独立運動のせいで伊藤博文を失っていますし、このままほっといたらろくなことが起きないと判断していたことでしょう。

 

その通り総督府側は独立運動を徹底的に弾圧。独立運動を封じ込んで武力でねじ伏せるという武断政治が行われていくようになりました。

 

しかし、それでも朝鮮の独立運動は止むことはなく、1919年に朝鮮において三・一独立運動が起こったのを機に総督府は武断政治から文化政治に方針を変更します。

 

 

朝鮮人を日本人とする皇民化政策が行われ、太平洋戦争の時には日本国の兵士として参戦することになりました。

 

③朝鮮総督府の終わり

こうして韓国を日本の一部としたのですが、1941年から始まった太平洋戦争に敗戦したことによって日本は朝鮮を手放すことになりました。

 

その結果、1910年から35年朝鮮を統治していた朝鮮総督府は廃止されます。

 

代わりに北緯36度線を境に北側がソ連、南側がアメリカの統治下となります。

 

その後、朝鮮戦争が勃発。こうして現在の朝鮮の形が作られていきました。

 

 

朝鮮総督府と韓国統監府の覚え方

 

以下の語呂合わせで覚えましょう!

 

一斗

 

国統監府】初代統監・伊藤博文

 

鮮総督府】初代総督 ・內正毅

 

まとめ

 総督府は韓国併合から敗戦まで朝鮮を支配していた機関のこと。

 統監府は第二次日韓協約から韓国併合まで朝鮮を保護国化していた機関のこと。

 統監府は朝鮮の政治を行なっていたのだが、第三次日韓協約によって義兵運動が盛り上がっていくと初代統監である伊藤博文が暗殺されてしまった。

 義兵運動や伊藤博文の死によって1910年に朝鮮は併合された。

 総督府は朝鮮のインフラや産業を振興していく一方で義兵運動を弾圧する武断政治を行なっていた。




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