領事裁判権と治外法権、どちらの言葉も中学2年生の歴史の授業で習いましたね。

 

この2つ、同じような意味とし憶えたのか、それとも区別して憶えるべきだったのか後になって迷う人が多いのでしょう。

 

今回は『領事裁判権と治外法権の違い』についてわかりやすく説明していきます。

 

領事裁判権と治外法権の違い

 

 

結論から言うと、「領事裁判権は不平等条約の中の治外法権のひとつ」と考えるとわかりやすいでしょう。

 

また日米修好通商条約は、外国人がある国にいながら、その国の管轄権に服しないという「治外法権」に満ちたものであったということを頭に入れながら、それぞれの用語を整理していきます。

それぞれの意味

領事裁判権(リョウジサイバンケン)

領事裁判権とは、江戸時代末期にアメリカとの間で結ばれた日米修好通商条約(いわゆる不平等条約)の中に含まれている日本の司法にとって不平等な内容。

治外法権(チガイホウケン)

治外法権とは、外国人に対して日本の司法権、行政権、立法権が適用されないという意味です。外国人がある国にいても、その国のルールに従わなくて良い権利です。

 

ここまでの説明から、「日本185年の日米修好通商条約の締結をもって治外法権を認めてしまった。その治外法権の中の司法権に関わることの一つが領事裁判権である。」と理解しておきましょう。

 

領事裁判権(リョウジサイバンケン)について詳しく

 

 

領事裁判権とは「アメリカ人が日本で罪を犯した場合であっても、日本の法律で日本の裁判にかけられるのではなく、アメリカの領事によってアメリカの法律による裁判を行う」という意味であります。

 

領事裁判権を含んだ日米修好通商条約は、外国人がある国にいながら、その国の管轄権に服しないという「治外法権」に満ちたものでした。司法権に関わる治外法権な内容のものが領事裁判権です。

 

①領事裁判権を認めた背景

江戸時代から鎖国政策をとっていた日本がその政策を終了したのは1853年のペリー来航がきっかけとなっています。

 

翌年には日米和親条約を結び下田と函館の2港を開港。開港の背景には当時のアメリカが東アジアとの貿易拡充を図っていたことと、海難事故の際に漂着してしまった時のことなどを考慮すると、日本と国交があった方が良いとアメリカ側が考えていたからです。

 

2港の開港を足掛かりに、1858年にアメリカ総領事として日本に滞在していたハリスが貿易を始める目的として日米修好通商条約の締結を求めました。

 

 

そして、開港する港も長崎、神奈川、新潟、函館、兵庫と増やされたのです。

 

日米修好通商条約は日本が「領事裁判権を認める」「関税自主権を認める」という内容を含んでいる不平等条約でした。

 

②領事裁判権の内容と結果

領事裁判権の内容は先に触れたように、外国人が日本で罪を犯しても日本の法律で裁くことができないというものです。

 

外国人が罪を犯した場合には日本で裁判をおこなうのではなく、外国人の領事が裁判をおこなうというものでした。

 

領事裁判権を認めた結果、日本各地で外国人の犯罪が大量に発生することになりました。そして、領事裁判権を含んだ不平等条約(=日米修好通商条約)を変えるべく外国人を日本から追放しようという機運が高まり攘夷運動が始まっていきました。

 

 

治外法権(チガイホウケン)について詳しく

 

治外法権とは、外国に居るのに、その外国の法律の保護下ではなく、自国の法律の保護下に居るという意味です。日本の司法権、行政権、立法権が適用されないという意味です。

 

日米修好通商条約においてこの治外法権を日本が受け入れてしまったことによって、領事裁判権を認め、関税自主権を放棄(日本が輸入品に関して自主的に関税を決められなくなった)してしまったのでした。

 

①治外法権とは?

治外法権とは、簡潔に言うと「ある国に滞在していながら、その国のルールに従わなくてよい権利」です。

 

今回、治外法権と領事裁判権との違いは何かを理解する上で、「日米修好通商条約という不平等条約を結んだことで、治外法権の中の領事裁判権のために外国人が日本で犯罪をおこしても日本の法律で裁くことができなかったので非常に問題であった」というように捉えておくと良いでしょう。

 

また、日本は1858年にアメリカとの日米修好通商条約だけではなくオランダ、ロシア、イギリス、フランスとも不平等な条約を結んでおり「安政5カ国条約」と呼ばれています。

 

 

②治外法権の内容と結果

治外法権の一つである領事裁判権がクローズアップされることになった、日本にとって一つのショッキングな歴史的な出来事が起きました。それは、「ノルマントン号事件」です。

ノルマントン号事件

1886年、明治19年10月、イギリスの貨物船「ノルマントン号」がこの和歌山県沖で沈没しました。

この船に乗っていたのは、イギリス人、ドイツ人、中国人、インド人の乗組員39名と、女性4人をふくむ日本人の乗客25名。この中で救助されたのはイギリス人とドイツ人だけで、日本人は一人も助けられず死んでしまいました。

イギリス人の船長、乗組員は日本人を助けなかったと考えられました。しかし、裁判で船長以外は無罪。日本で起きた事件にもかかわらず、裁判はイギリスの領事館で、イギリスの法律に基づいて行われました。

条約によって「治外法権」を認めているため、日本の法律で裁くことができなかったのです。

 

③領事裁判権の放棄のため治外法権の廃止に向けて

ノルマントン号事件をきっかけに、不平等な条約を一刻も早く改正することが望まれるようになりました。

 

明治新政府は不平等条約の改正に乗り出します。岩倉具視や木戸孝允、大久保利通、井上馨や大隈重信などが条約改正に当たりますがなかなかうまくいきませんでした。

 

ようやく日清戦争開戦直前になって当時の外務大臣であった陸奥宗光が日英通商航海条約を締結します。

 

 

陸奥宗光は、ロシアが清に進出したことに危機感を募らせていたイギリスに協力するという働きかけをし、その条件として不平等条約の改正を提案しました。

 

④日英通商航海条約によって不平等条約が解消

陸奥宗光が国際情勢を見極め、日英通商航海条約を締結したことで、日本は領事裁判権の廃止と関税自主権の一部に成功しました。

 

そして、当時世界で最も影響力のある大国であったイギリスと条約改正をしたことを契機にアメリカ、ドイツ、イタリア、フランスとも同様に不平等条約を改正する条約を結ぶことに成功したのです。

 

 

まとめ

・治外法権を認めと領事裁判権を受け入れることになった条約は日米通商航海条約。

・領事裁判権とは外国人がある国で罪を犯しても、その国の法律によって裁判にかけられるのではなく、自国の領事によって自国の法律による裁判にかけられること。

・治外法権とは、外国人がある国にいても、その国のルールに従わなくて良い権利です。

・領事裁判権はその国の裁判を受けなくてよいという特権なので「領事裁判権」は「治外法権」の一部と考えると違いが分かりやすい。

・治外法権、領事裁判権の廃止は1894年、イギリスとの間で日英通商航海条約によって実現した。

・日英通商航海条約の交渉をしたのは外務大臣の陸奥宗光。

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