幕末の動乱期にさかんに唱えられた攘夷論。

 

幕末には次の時代を模索して様々な思想や主張が生まれましたが、攘夷論もその一つです。

 

それだけ当時の人々は来るべき時代に不安を感じ、どうすればうまくいくか真剣に議論されていたということですね。

 

今回はそんな『攘夷論』についてわかりやすく解説していきます。

 

攘夷論とは 

(攘夷論の風刺図 出典:Wikipedia

 

 

攘夷論とは、幕末に広まった外敵を追い払って国内に入れないようにしようという排外思想(スローガン)のことです。

 

「攘」は払いのける・払い除く、「夷」は異民族、未開の民族という意味です。

 

つまり、開国によって日本に入ってきたアメリカやイギリスなどの欧米列強諸国を武力を使って払い除こうという考えです。

 

攘夷論が生まれた背景 

①水戸学の発達

江戸時代に水戸藩では朱子学の影響を強く受けた水戸学が発達しました。

 

水戸学は国学、史学、神道など日本古来の伝統・文化を追求する学問として誕生し、後には全国の藩校でも教えられ幕末の志士たちに多大な影響を与えることになります。

 

水戸学では欧米諸国は卑しむべき夷人であるため、日本列島にその力が及んだ場合直ちに排除しなければ習いと位置付けられました。キリスト教が弾圧されたことと似ていますね。

 

1820年から1830年頃になると、『古事記』や『日本書記』などの日本固有の秩序を明らかにしようという考えが強くなり、「尊王攘夷」という言葉が登場します。

 

「尊王」とは君主、つまり当時では天皇のことを指します。

 

君主=天皇を尊び、夷人=欧米列強を打ち払おうという思想が発達してきたわけです。

 

江戸幕府が1825年に出した異国船打払令もこのような考えに基づいています。

 

 

②国学の発達

また、江戸時代中頃から国学という学問が発達してきます。

 

国学とは儒教や仏教の影響を受ける以前の古代の日本にあった独自の文化・思想、精神世界(古道)を明らかにしようという学問です。

 

古道の研究は賀茂真淵本居宣長により確立され、江戸時代後期には平田篤胤によって「復古神道」が唱えられます。

 

 

すると都市部の町人だけでなく全国の農民にまで支持され、幕末の武士にも多大な影響を与えるようになり、尊王攘夷論として取り入れられるようになります。

 

③開国による影響

幕府は1853年に日米和親条約1858年に日米修好通商条約を締結します。

 

これにより日本は開国されるわけですが、この条約は不平等条約といわれ日本にとって大変不利な内容の条約でした。

 

金銀の交換比率の内外差から金の国外流出を招き、外国の製品が入ってきたおかげで日本製品が売れなくなったりと国内の経済は次第に混乱していきます。

 

各地で一揆や打ちこわしが続発し、外国を排除しようとする攘夷論が発達するようになりました。

 

 

攘夷論を象徴する事件

 

 

攘夷論がさかんに唱えられるようになると実際に外国との衝突事件も発生してくるようになりました。

 

①生麦事件

1862年、江戸から京都へ向かう薩摩藩の島津久光の行列に乱入したイギリス人商品たちを藩士が殺傷する事件が発生します。

 

事件後、薩摩藩とイギリスは賠償などの処理を巡って交渉を行うも決裂します。

 

 

②薩英戦争

生麦事件の報復として1863年、6月にはイギリスは軍艦7隻を鹿児島湾に入港させると薩摩藩船を拿捕。

 

これに対し薩摩藩はイギリス艦隊を砲撃して薩英戦争が始まります。

 

これにより鹿児島市街は大きな被害を受けますが、イギリス側も被害が大きく4日後にイギリス艦隊は鹿児島湾を去り戦争は終わりました。

 

 

③下関事件四国艦隊下関砲撃事件

1863年、長州藩は海運の要衝だった下関海峡を封鎖。近くを通ったアメリカ商船、フランス通報館、オランダ軍艦などを砲撃しました。(下関事件)

 

これに対し、1864年、イギリス・フランス・オランダ・アメリカの4カ国は長州藩の下関砲台を砲撃しことごとく粉砕し、長州藩は大敗します。(四国艦隊下関砲撃事件)

 

 

攘夷論の終わり

①薩摩藩の動き

薩英戦争によってイギリスの軍事力を思い知らされた薩摩藩。

 

それまでの公武合体派の島津久光などの勢力に代わって、西郷隆盛や大久保利通などの倒幕派への藩の主導権が移ることになります。

 

 

②長州藩の動き

一方、長州藩は最終的には倒幕に向かうわけですがそれまでに少し時間がかかります。

 

長州藩は一口に攘夷派と言っても過激な面がありました。乱暴者ですね。

 

その象徴が先に紹介した下関事件なんです。

 

この行動に同じ攘夷派でも穏健な孝明天皇は快く思っていませんでした。

 

そこで、1863年、朝廷は薩摩藩・会津藩と協力して京都から長州藩を追い出します。(八月十八日の政変

 

その後の1864年、信用回復のため再び朝廷に向うも排除されると、今度は力づくで朝廷での地位を回復しようと会津藩と京都で戦います。(禁門の変または蛤御門の変

 

 

これにも敗れた長州藩は京都を去ることになります。

 

さらに幕府は長州藩に制裁を加えるため軍を派遣し、長州藩は敗れて降伏します(第一次長州征伐)。

 

先の四国艦隊下関砲撃事件と合わせて長州藩はかなり厳しい状況になります。

 

それでも藩内で主戦派であった高杉晋作は奇兵隊を組織しさらに幕府軍と戦います(第二次長州征伐)。

 

 

民兵最強組織とも言われた奇兵隊は幕府の軍を打ち破る結果に終わり、これを機に幕府の力は急速に衰退していきます。

 

③攘夷論から倒幕へ

これらの事件で欧米諸国の圧倒的な軍事力の差を痛感した両藩は、外国と積極的に交流することで富国強兵を図ります。

 

そして、欧米列強と対峙していくべきだとの考えが主流になり、攘夷を叫んでいた人々が倒幕に向かっていくわけです。

 

これらの出来事の間、薩摩藩の西郷隆盛は弱っていく幕府の姿を見て、長州藩と協力すべきとの土佐藩の坂本龍馬の意見に同調します。

 

1866年西郷隆盛・大久保利通らと長州藩の桂小五郎・伊藤博文らは坂本龍馬の仲介により共に協力して幕府を打つことを約束し倒幕を決意します。(薩長同盟

 

 

語呂合わせ

 

 

○薩英戦争は1863年「いやむざんなり薩英戦争」

 

○四国艦隊下関砲撃事件は1864年「幕府無視して砲撃す」

 

と覚えましょう!

 

まとめ

 攘夷論とは外国を武力で追い払おうという幕末の思想、スローガンである。

 水戸学や国学の発達とともに全国に広がり、開国による国内の混乱により外国を排除する動きが活発になった。

 薩英戦争と四国艦隊下関砲撃事件に敗れたことにより、外国と接近して国力を増強すべきとの主張に変わり、攘夷論は衰退した。




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