17世紀後半になると、農業技術の進歩により生産力が向上し、織物や陶磁器、漆器、醸造など農業以外の諸産業の発達も見られるようになりました。

 

諸産業の発達によって商業の発達や都市の発展がすすみ、交通網の整備につながっていきます。

 

陸上では幹線道となる五街道が整備され、海上交通では「菱垣廻船(ひがきかいせん)」と「樽廻船(たるかいせん)」が大きな役割を担いました。

 

今回は『菱垣廻船と樽廻船の違い』について、簡単にわかりやすく説明していきます。

 

菱垣廻船と樽廻船とは?

 

菱垣廻船とは、17世紀初めに大坂と江戸の大消費地を結び多種多様な生活物資を運んだ廻船のことで、樽廻船は18世紀に酒専用として広まった廻船のことです。

 

江戸時代の幕政が安定するようになると、産業や都市の発展から物資の流通量が増大していきます。

 

大量の物資を安価で運ぶには陸よりも水上交通のほうが適していたため、廻船が発達することになりました。

 

菱垣廻船と樽廻船の発達により、安定して物資を輸送できるようになり、また、さまざまな航路が整備されるなど江戸時代の海上交通の発展につながりました。

 

菱垣廻船と樽廻船の違い

 

 

この2つの違いは主に以下のようにまとめられます。

 菱垣廻船は1619年に船問屋が大坂から江戸に生活物資を運んだことによって始まり、樽廻船は1730年に十組問屋から酒問屋が脱退することで始まった。

 

 船体は、菱垣廻船には船の側面に菱型格子があり樽廻船にはないが、形状などに大きな違いはない。

 

 性能や能力は、積み込み合理化を図った樽廻船のほうが速かった。のちには、菱垣廻船、樽廻船とも大型化し、改良がすすんでいく。

 

 積荷は、菱垣廻船は酒以外、樽廻船は酒専用の時期から酒と指定品目のみになるものの、実際はさまざまな品目を運んでいた。

 

 航路はともに南海路で大坂と江戸との間を航行した。

 

ここからはこれらの違いに触れながら、菱垣廻船と樽廻船について詳しく解説していきます。

 

菱垣廻船と樽廻船について詳しく

(復元された廻船 出典:Wikipedia

①廻船始まりの歴史

菱垣廻船は、1619年に堺の船問屋が紀州富田浦から250石積みの廻船を借り受けて、木綿・油・酒・醤油などの生活に欠かせない物資を大坂から江戸に運んだことが始まりでした。

 

1624年に大坂北浜の泉谷平衡門が江戸積船問屋を開くと、続々と船問屋が開店し、菱垣廻船の運行が独立したものとして確立することになります。

 

その後、1694年には海難事故への対策や不正防止のために、菱垣廻船は大坂の二十四組問屋と江戸の十組問屋に所属することが義務付けられました。

 

海難事故の際の補償や輸送時間の問題で不満を持つ酒問屋は、1730年に江戸の十組問屋から脱退し酒専用の樽廻船問屋として独立しました。

 

これが、樽廻船の始まりです。

 

②船体構造

菱垣廻船、樽廻船とも、安土桃山時代以降に海運で広く使われた「弁才船」と呼ばれる大型木造帆船が元になっています。

 

 

(1860年代の弁才船 出典:Wikipedia)

 

 

この弁才船は、もともと瀬戸内海で荷船として利用されていたものでした。

 

外観は、船首には水押(みよし)と呼ばれる太い船首材が突き出しており、船尾は反り上がり、船体後方には舵柄が船からはみ出すほどの大きな舵が備えられていました。

 

その船体構造は、何枚もの大板を接ぎ合わせたもので、細かい骨組みで強度を保つ洋船とは違って、厚さ10cmにも及ぶ板をふんだんに利用できたのは木材の豊富な日本ならでと言えます。

 

大きさは、大型になると全長30mほど、幅は7.5mほどありました。

 

菱垣廻船には装飾として船の側面に檜の薄板や竹でできた菱垣格子が付けられており、樽廻船は菱垣廻船に比べて少し深さがあり船倉を広く取ってあるのが特徴です。

 

帆柱は1本で1枚の大きくて丈夫な帆が張られています。

 

帆の材質は江戸初期は筵(むしろ)が主流でしたが、その後は木綿帆が使われるようになります。

 

薄い木綿布を2枚重ねたものから、太い木綿で織られた丈夫で手間のかからない織帆が一般的になります。大型のものだと、帆柱は約27m、帆の大きさは20m四方ほどもありました。

 

③性能、能力

順風はもちろんのこと逆風での帆走性能も可能になり、帆柱に登らずとも帆の操作を船上で行うことができました。

 

もともと風の状況によって帆走したり櫓を漕いだりする「漕帆兼用船」だったものが、帆走のみで航行する「帆走専用船」に改良されました。

 

積載能力は江戸中期までは100石から500石積が中心でしたが、江戸後期になると菱垣廻船で1000石積、樽廻船で1500石積を超えるようなものも活躍するようになります。

 

とくに、1000石積以上の船は千石船とも呼ばれました。

 

航行能力については、改良されるまでの江戸初期までは大坂と江戸の間を平均で1ヶ月以上、最短で10日ほどでした。

 

改良がすすんだ江戸後期になると、平均で12日、最短で6日と短縮され、年間の往復回数が増えることで輸送能力が大幅に大きくなりました。

 

当初は速く運ぶために樽廻船のほうが小ぶりだったのですが、改良がすすんだことと樽廻船が優位になったことから、樽廻船のほうが大きな船で活躍することとなります。

 

④船乗員

責任者の船頭、営業関係者である上乗(荷物や船員の監視)、荷物賄方(積荷担当)、操船を担当する船親父船表賄方(帆や舵の操船担当)、舵取り水主(乗組員)、飯炊きなどが乗船しました。

 

価格競争もあり人件費の削減から、千石船であっても江戸中期からは総勢10〜20人ほどで運行していました。

 

⑤積荷

江戸時代初期に、木綿・油・綿・酒・酢・醤油などを大坂から江戸に運ぶことで菱垣廻船が始まりました。

 

ところが、酒については腐りやすいので速く運びたいこと、重たいので船底のほうに積むことなどから、酒だけは別に積むほうが都合がよいということになり、酒荷専用の船として樽廻船が誕生します。

 

また、嵐などから転覆を防ぐために上部の積荷を捨てることがあり、この場合、捨てられた積荷を補填するために共同でお金を出し合うことが決められていました。

 

しかし、酒は船底のほうにあるため無事なことが多く、お金を払うばかりになっていたことも樽廻船誕生の一因になります。

 

以降は、菱垣廻船と樽廻船ごとに運べる品目が取り決められます。

 いずれも運べる品目…米、糠、阿波藍玉灘目素麺、酢、醤油、阿波ろうそく

 

 樽廻船のみ運べる品目…酒

 

 菱垣廻船のみ運べる品目…上記以外のすべての品目

しかし、この取り決めは完全には守られることはなく、徐々に樽廻船が優位な状況になっていきます。

 

菱垣廻船と樽廻船の航路について

 

 

江戸時代の航路は、南海路西廻り海運東廻り海運とあり、菱垣廻船と樽廻船は南海路を航行しました。

 

南海路は、大坂から紀伊半島を回って、紀伊大島や鳥羽などを経由して伊豆半島は下田から江戸へと向かう航路です。

 

西廻り海運は、日本海沿岸を西へすすみ赤間関(下関)から瀬戸内海を通って大坂に向かう航路を指します。

 

西廻り海運では北前船が発達し、菱垣廻船よりも強度を高める改良がすすめられました。

 

東廻り海運は、秋田から出発し、津軽海峡から太平洋側を南下して房総半島を回り込み江戸に向かう航路のことです。

 

東廻り海運、西廻り海運ともに、河村瑞軒が中心となって整備しました。

 

 

まとめ

 菱垣廻船と樽廻船は主に大坂と江戸の間で物資を運んだ廻船のことで、菱垣廻船には装飾として船の側面に菱型の垣が付けられていた。

 菱垣廻船と樽廻船の積荷の品目に取り決めが設けられるも、樽廻船のほうが安くて速いこともあり、樽廻船が優位となり菱垣廻船は衰退する。

 菱垣廻船と樽廻船の活躍から船の改良がすすみ、海上運送の能力や速度が飛躍的に伸びたことで、江戸・大坂・京都の三都の発展につながった。




関連キーワード