明治維新の時、日本は欧米列強の植民地にならないよう全力で近代化を目指しました。

 

それから27年、ついに日本は東アジアの大国、清と戦意を挑むことになります。

 

今回は、そんな『日清戦争』について、どうして戦争が起きたのか、戦いはどうなったのか、戦争後に日本はどう変わったのかなど、簡単にわかりやすく解説していきます。

 

日清戦争とは?

(日本兵による一斉射撃の様子 出典:Wikipedia

 

 

日清戦争とは、1894年~1895年にかけて、朝鮮半島の支配権をめぐって日本と清国が戦った戦争です。

 

そのため、主な戦場は朝鮮半島、戦争の後半には清国領土で戦うことになります。

 

勝敗の結果は、日本の圧勝。一方的な展開で日本軍は清国を撃破しました。

 

その後、清とは講和条約である下関条約を結び、日本は多額の賠償金を手に入れました。

 

日清戦争は起こった原因

どうして、日本と清国は朝鮮半島をめぐって争ったのでしょうか?

 

朝鮮の中で日本派と清国派が争い、それぞれが日本や清国の援助を受けて泥沼の争いをしていたからです。

 

つまり、どちらが勝つかで日本と清国のどちらが朝鮮を支配するかが決まったわけです。

 

ですから、戦争が始まる10年以上前から朝鮮半島で両国の駆け引きが繰り広げられていました。

 

このころの様子を描いたのがビゴーによる魚釣りに風刺画です。

 

 

(ビゴーの描いた当時1887年の風刺画)

 

 

朝鮮という魚をめぐって日本と清国が釣りをして競っており、橋の上からはロシアがその様子を伺い、隙あらば魚を奪い取ろうと狙っています。

 

まさしく、この当時の状況を分かりやすく描いています。

 

ここからは日清戦争突入までの流れを詳しく解説していきます。

 

①朝鮮での日清両国の駆け引き『壬午軍乱』(1882年)

朝鮮王朝第25代の哲宗が死ぬと子がいなかったので、王族の大院君の子が26代国王の高宗として即位しました。その奥さんが閔妃です。

 

王様の父親と王様の奥さんが権力争いを始めます。父親である大院君は清国の、奥さんである閔妃は日本の助けを借りました。

 

大院君は一気に勝とうと軍隊を使ってクーデタをおこすのですが、清国はこれはやりすぎだと考え、大院君を清に連れ去り、政治は閔妃にやらせました。

 

閔妃は、いざというとき助けてくれなかった日本より、素早く動いた清国が頼りになると考え、あっさりと清国と手を組みます。

 

 

②朝鮮での日清両国の駆け引き『甲申事変』(1884年)

清国の後ろ盾を得た閔妃は改革を行おうとはしませんでした。

 

これに対し、日本の明治維新のように改革を行うべきだと考えた金玉均らは日本に接近します。

 

日本は金玉均らを支援しクーデターをおこしますが、再び清国が軍を出して鎮圧します。

 

結局、日本は清国を朝鮮半島から追い出すことに失敗しました。

 

 

③一時的な仲直り。天津条約(1885年)

このままでは、いつ日本と清国が戦争になってもおかしくありません。

 

当時の日本はまだ戦争には早いと考えました。

 

そこで、清国との間で日清両国のどちらかが朝鮮半島に出兵するときは事前に相手に通知しましょうという約束をします。これが天津条約です。

 

 

④日清戦争のきっかけ。甲午農民戦争(1894年)

日本と清国が互いに朝鮮半島の支配権をめぐって争っていたころ、当の朝鮮王朝はほとんど何もしていませんでした。

 

そのころ、朝鮮半島で東学と呼ばれる宗教が流行していました。民間信仰に儒教・仏教・道教・キリスト教などが取り入れられて作られた宗教です。

 

朝鮮政府は東学を禁止し、開祖を処刑しましたが信仰は急速に広がっていきました。

 

1892年ころから東学は政府の圧政や外国の侵略に対する反対運動をおこします。

 

そして、ついに1894年、大規模な反乱に発展しました。朝鮮政府はそれを鎮圧できず清国に救援を求めたのです。

 

 

⑤日清両国の出兵

朝鮮からの救援要請を受けた清国は直ちに軍を派遣します。

 

この時清国は天津条約に基づき、日本に出兵を通告してきました。

 

日本もこれにあわせて出兵し両軍が朝鮮半島でにらみ合いました。

 

⑥日英通商航海条約の締結

戦争に向けて事態が進んでいたころ、外務大臣の陸奥宗光はイギリス相手に大勝負をしていました。

 

それが、日英通商航海条約を結ぶことです。

 

 

ロシアの南下を恐れたイギリスが日本との関係をよくするため、不平等条約の一部である治外法権を廃止したのです。

 

当時のイギリス外相は「日英間に対等条約が成立したことは、日本の国際的地位を向上させるうえで清国の何万の軍を撃破したことよりも重大なことだろう」と語っています。

 

実際、これによって日本が強気になったのは確かでしょう。

 

日清戦争の経過と結果

(1891年の極東地図)

 

 

日本艦隊が豊島沖で清国艦隊を攻撃することで、日清戦争が始まりました。

 

戦いの最中、清国の兵を乗せたイギリス船高陞号を東郷平八郎艦長が撃沈し国際問題になりかけましたが、東郷の措置が国際法にのっとったものだったので騒ぎはしずまりました。

 

陸軍は朝鮮半島を進み平壌で清国陸軍を撃破、海軍は清国海軍を黄海会戦で撃破します。

 

その後も一方的な展開で日本軍は清国を撃破しました。

 

①清国はなぜ負け続けたの?

理由はたくさんありますが、一番大きなものは誰が戦争全体を指導するかが決まっていなかったことです。

 

もっとも影響力が強かったのは李鴻章ですが、ほかにもたくさんの有力者がいて指揮の統一が取れませんでした。

 

また、日本軍が徴兵令などを通じて国民全体で戦う近代化ができていたのに対して、清国の軍隊は装備も士気もばらばらでした。

 

②清国が負けを認め、下関条約を締結(1895年)

(調印された下関条約 出典:Wikipedia

 

 

日本軍に首都北京周辺まで迫られた清国は講和を決断します。

 

1895年、山口県下関市で講和会議が開かれました。日本側の代表は総理大臣の伊藤博文外務大臣の陸奥宗光、清国の代表は李鴻章です。

 

会議の結果、結ばれたのが下関条約でした。

 

下関条約の主な内容

(1)清国は朝鮮国の独立を認める(朝鮮に手を出さない)

(2)遼東半島・台湾・澎湖諸島を日本に譲る

(3)日本に賠償金3億1100万円を支払う

 

③三国干渉

下関条約は遼東半島への進出を考えていたロシアを刺激しました。

 

ロシアはドイツやフランスとともに日本に圧力をかけます。これを、三国干渉といいます。

 

ロシアだけでも対抗できないのにドイツやフランスにまで迫られたら、日本は譲歩するしかありません。

 

泣く泣く、遼東半島をあきらめました

 

 

日清戦争の賠償金額とその使い道

日清戦争の戦費は2億2500万円ほどです。

 

賠償金は遼東半島を返す代わりに受け取ったものを含めると3億6450万円で、黒字に終わります。

 

大半が軍事費に当てられましたが、一部は八幡製鉄所の建設や金本位制の財源となり日本の近代化にも使われました。

 

 

その後、台湾には総督府がおかれました

 

最初は原住民らの抵抗が起きますが、鎮圧してからは砂糖生産をはじめとする産業育成が図られました。

 

まとめ

 日清戦争は朝鮮半島をめぐる日本と清国の争いが原因で起こった戦争。

 朝鮮半島では壬午事変・甲申事変など戦争前から日清の駆け引きがおきていた。

 戦争の直前、日英通商航海条約が結ばれ、外交的に日本優位となった。

 戦争は日本の圧勝。そして日本は下関条約で遼東半島・台湾と賠償金を獲得した。

 清国は朝鮮半島から手を引いた。

 ロシアはドイツ・フランスとともに三国干渉をおこなって遼東半島を返還させた。

 賠償金の一部は八幡製鉄所の建設や金本位制度の財源となった。




関連キーワード