NHK2020年大河ドラマのテーマは、織田信長と非常に関りの深い知将・明智光の生涯ということで、明智光秀だけではなく、その周辺の人々が多数活躍するような大河ドラマとなっています。

 

 

そんな大河ドラマ『麒麟がくる』では、明智光秀が本能寺で打ち取ったとされる、後の主君・織田信長も登場します。

 

(織田信長 出典:Wikipedia)

 

織田信長は、天下統一のために数多くの武将を滅亡させており、その中でも織田信長の勢いを止める食べく結成された「織田信長包囲網』の中核的存在であった浅井家と朝倉家というのは、歴史ファンの間でも有名です。

 

浅井・朝倉家を滅亡させた年に、織田信長は自身の宿敵だった伊勢・長島の一向一揆衆を鎮圧するために出陣しています。

 

実は、この長島一向一揆衆と織田信長、切っても切り離せない関係でもあります。

 

今回は、大河ドラマでも取り上げられること必須の『長島一向一揆』について、簡単にわかりやすく解説していきます。

 

長島一向一揆とは?

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(太平記長嶋合戦 出典:Wikipedia)

 

長島一向一揆とは、1570年ごろから1574にかけて行われた伊勢長島(現在の三重県桑名市周辺)という場所を中心に繰り広げられた、浄土真宗・本願寺の門徒らが織田信長に反旗を翻して行った一向一揆のことです。

 

一向一揆とは、権力に対する抵抗運動、今でいう過激なデモ活動と似ています。

 

織田信長は、この長島一向一揆衆となんと3も戦いを繰り広げています。

 

長島一向一揆が起こった背景

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(石山合戦の図 出典:Wikipedia)

①事の発端は石山合戦だった

長島一向一揆自体、単独で行われたわけではなく、事の発端となった合戦があります。

 

その名も、「石山合戦(石山戦争)」です。

 

 

これは、日本の宗教勢力である「浄土真宗本願寺派」のボス的存在である顕如(けんにょ)というお坊さんと織田信長の対立が原因となっています。

 

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(顕如 出典:Wikipedia)

 

石山本願寺とは、摂津国石山(現在の大阪府)にあった、浄土真宗本願寺派の総本山です。

 

織田信長派、天下統一における経済の中心地として、石山本願寺のあるエリアをなんとしても手に入れたいと考えていました。

 

そのため、当時石山本願寺を門主(もんしゅ/ボス的存在)だった顕如に対し、一方的に土地の明け渡し等の理不尽な要求をしたのです。

 

織田信長の一方的で理不尽ともいえる要求に激怒した顕如は、織田信長に対して戦闘を開始します。

 

これが、石山合戦の起こった原因となります。

 

②浄土真宗本願寺派の反乱の勃発

ここで気になるのが、あの”うつけ”とよばれた織田信長に戦いを挑んだ、浄土真宗本願寺派の勢力です。

 

浄土真宗は、もともと鎌倉時代に活躍した僧侶・親鸞(しんらん)が作った仏教の宗派です。

 

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 (親鸞 出典:Wikipedia)

 

念仏「南無阿弥陀仏」を唱えれば、誰でも極楽浄土へ行けるという手軽さから、武士や農民たちの心をつかみ、多くの信者を得ています。

 

浄土真宗の中でも、勢力を伸ばした宗派が、この本願寺派と呼ばれる人たちです。

 

本願寺派の結束は、それはもう固く、拠点のある地域を治めていた戦国大名などといった権力者にも集団で反乱を起こしてきました。これが、一向一揆です。

 

全国に本願寺派の拠点があることから、総本山のボスである顕如の起こした石山合戦を皮切りに、全国で大名に対して抗う一向一揆が生まれ、その中でも織田信長が鎮圧に手を焼いた一向一揆こそ、長島一向一揆なのです。

 

長島一向一揆の経過

 

長島の一向一揆は、1570年の蜂起に始まり、鎮圧するまでに通算4という時がかかりました。

 

これだけ聞いても、織田信長が鎮圧に苦戦したことがうかがい知れます。

 

長島の一向一揆は4年の間で3度の局面が存在します。

 

ここからは、この3度にわたる本願寺派と織田信長軍とで起こった長島一向一揆について、まとめていきます。

 

①長島一向一揆その1~織田信長の弟が討ち死に~

第一次長島侵攻とも呼ばれる長島一向一揆その1は、1571年におこりました。

 

しかし、その前の年の1570年、織田信長の理不尽に対して起きた石山合戦に伴い、長島の地でも本願寺派の門徒が蜂起しました。

 

本願寺派の勢いはとてつもないもので、この時に織田信長の弟である織田信興(おだのぶおき)が守る尾張国・小木江城(こきえじょう/現在の愛知県愛西市)を攻撃したのです。

 

ここで、織田信興は自害せざるを得なくなってしまいます。

 

このとき織田信長はというと、比叡山へ逃亡した浅井・朝倉連合軍と対立を続けており、織田信興を助けることができませんでした。

 

②織田信長、5万の兵を率いて鎮圧へ向かうも敗北を喫す

浅井・朝倉連合軍と和睦を成立させた織田信長派、弟の織田信興を自殺に追い込んだ長島一向一揆衆を倒すべく、5万人の兵を率いて出陣します。

 

織田軍は三手に分かれますが、長島にはいくつもの中洲が存在し、中洲には砦があり、長島城へたどり着くには困難でした。

 

そこで織田軍は周辺の村々を放火し、この時は退散しました。

 

しかし、ここで三手のひとつだった柴田勝家軍が、一向一揆衆と激しい戦闘を繰り広げます。

 

(柴田勝家像 出典:Wikipedia)

 

ここで、美濃三人衆(みのさんにんしゅう)の一人である、氏家卜全(うじいえぼくぜん)が傷を負った柴田勝家の代わりに軍勢をまとめるも、戦死します。

 

これにより、織田軍は一向宗に敗北を喫することになりました。。

 

②第二次長島掃討戦

1573年に、織田信長は敵対勢力の浅井・朝倉連合軍を滅亡に追い込むと、すぐに長島一向一揆衆との戦いを行うため、各武将へ通達します。

 

この時、伊勢でも一向一揆衆の反乱が起きており、鎮圧をするのですが、その帰りに長島一向一揆衆が織田軍に追撃を開始します。

 

今回はなんと、伊賀や甲賀からの鉄砲の名手らも参戦しており、織田信長達には大変不利な状況となりました。

 

ここで、織田家筆頭家老の林貞秀の息子である林進次郎が奮闘するも、一向一揆衆にはかなわず討ち死にという結果になります。

 

さらに天候の悪化も相まって、織田軍はやっとの思いで岐阜へと帰還するに至りました。

 

こうして二回目の長島一向一揆衆との戦いも、織田軍の敗北という結果に終わりました。

 

③第三次長島侵攻

織田信長にとって、長島一向一揆衆との戦いは相次いで敗北かつ、大事な部下たちを失ったことで、その恨みたるや相当なものでした。

 

第三次長島侵攻は1574年に行われ、織田軍の総力を結集した掃討戦となりました。

 

長島に着いた織田軍は、またも三手に分かれますが、今回は水軍の名手である九鬼嘉隆(くきよしたか)を筆頭とした九鬼水軍や、伊勢・尾張の水軍を率いてバトルを繰り広げます。

 

水軍のパワーは絶大で、5つある砦のうち2つをあっさり攻略し、残った砦に一向一揆衆を追い詰めていきました。

 

しかし、恨みつらつらの織田信長は、兵糧攻めという作戦でジワジワと一向一揆衆を追い詰めていきます。

 

ジワジワ攻め立てた兵糧攻めにより、長島一向一揆衆は降伏。織田信長はそれを受け入れるのでした。

 

しかし、織田信長の降伏受け入れはただの作戦でした。降伏し、城を捨て去った長島一向一揆衆に対して、攻撃を仕掛けるように各武将へ通達していたのです。

 

これに怒りをあらわにした長島一向一揆衆は、兵糧もなくやせ細った体で織田軍へ対抗するも、あえなく全滅させられました。

 

長島一向一揆のその後

(三重県にある長島一向一揆殉教之碑 出典:Wikipedia

 

なんとこの長島一向一揆では、長島一向一揆だけでなく、多くの織田一族が命を落としています。

 

その数は700から1000人だったとされています。

 

長島一向一揆衆の全滅により、長島での自治は完全に崩壊します。

 

長島城は、織田軍の滝川一益(たきがわかずます)に与えられることとなりました。

 

(滝川左近将監一益肖像 出典:Wikipedia)

 

まとめ

まとめ

 

 長島一向一揆は浄土真宗本願寺派の勢力のことで、彼らと織田軍の対立によって引き起こされた戦いが、長島一向一揆の戦いである。

 

 事の発端は、浄土真宗本願寺派のボス・顕如が織田信長の理不尽な要求に反発したことで起きた石山合戦が由来。

 

 長島一向一揆衆は3度にわたって織田軍と対決している。

 

 長島一向一揆が織田信長に相当恨まれた理由は、長島一向一揆衆によって織田信長の弟である織田信興が自害に追い込まれたことや、3度に渡る掃討戦で織田軍の重要人物が何名も戦死しているから。

 

 長島侵攻は、2度織田軍の敗北に終わったが、3度目にして織田軍の勝利に終わる。

 

 長島はこれにより自治を失うが、織田信長の家臣である滝川一益に長島城が与えられることとなる。

 

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