【甲午農民戦争(東学党の乱)とは】原因は?簡単にわかりやすく解説!!日清戦争のきっかけへ

 

農民というのはいつの時代も怒らせたら恐ろしいものです。

 

日本でも打ちこわしや一揆などが発生。時の権力者の頭を悩ませており、それはどこの国も一緒でした。

 

今回はそんな農民の反乱の中でも日本に大きく影響を与えた『甲午農民戦争(こうごのうみんせんそう)』についてわかりやすく説明していきます。

 

甲午農民戦争とは?

 

 

甲午農民戦争とは、1894年(明治27年)に朝鮮半島で起きた農民たちの大反乱のことです。

 

この反乱を指揮したのが「東学党」という組織だったこともあり、別名東学党の乱と呼ぶこともあります。

 

この反乱をきっかけに日清戦争という大きな戦争が始まりました。

 

甲午農民戦争前の朝鮮半島

 

朝鮮半島を治めていた李氏朝鮮では、兵士の給料を払わず壬午事変が起き、そして日本人からの支援を受けた金玉均がクーデター(甲申事変)を起こします。

 

 

この両方の事件は、大規模な政治改革を行なって日本のような近代国家を目指していこうとして起こりました。

 

しかし、事件は当時朝鮮で一番権力を持っていた当時の国王の妻である閔妃が清の力を借りて鎮圧されます。

 

その結果、この事件の対処を巡って日本と清の関係が悪くなります。

 

それでは、両方にとって良くありませんので日本と清の間で天津条約を結びました。

天津条約の内容

① 日清両国は朝鮮から即時に撤退を開始し、4箇月以内に撤兵を完了する。

② 日清両国は朝鮮に対し、軍事顧問は派遣しない。朝鮮には日清両国以外の外国から一名または数名の軍人を招致する。

③ 将来朝鮮に出兵する場合はお互いに通告しなければならない。

 

こうして朝鮮半島の情勢は穏やかになると思いきや、そうはなりませんでした。

 

 

農民の不満の高まり

①複雑な日朝関係

当時の朝鮮半島の人々は日本のことを非常に恨んでいました。

 

この当時李氏朝鮮は江華島事件によって日本にとても有利な条約である日朝修好条規を結んでいました。

 

 

この日朝修好条規には日本がアメリカと結んだ日米修好通商条約のように朝鮮の関税自主権がありませんでした。

 

そのため、朝鮮半島の物価は急上昇。さらにこの当時朝鮮は日本に対して少しでも報復するため防穀令を出します。

 

防穀令とは簡単に言うと『日本に穀物を輸出しません!』と言う命令のです。

 

この命令に対して日本は大激怒。日本は朝鮮に対して約11万円(今の価値で5億5千万円)支払うことで決着しました。

 

②政府に対する人々の怒り

李氏朝鮮はいろんな国と不平等な条約を結んでいろいろいじめられていました。

 

しかし、その時権力を持っていた閔紀はそんなことには気にもせずただ単に汚職をするだけという今の時代ではありえないことをバンバンやっていました。

 

これに対して辛い思いをしている農民たちは不満を持たないわけありません。

 

農民たちは各地で反乱を起こすようになっていきます。

 

特に1894年に起こった役人が税金を横領したことに対してデモを起こして鎮圧されてしまう事件が起きた時に民衆の不満がピークを迎えます。

 

そしてついに甲午農民戦争が勃発してしまいます。

 

東学党の存在

(天道教の旗。 第3代教祖からは東学から天道教と呼ばれる 出典:Wikipedia

 

 

さてこの甲午農民戦争を話す時に欠かせない組織がいます。

 

それが東学党と呼ばれる人たちです。

 

この東学党とは今の自民党みたいに政治を行う組織ではなく、東学という新しい宗教を信仰している人々のことを東学党といいます。

 

朝鮮半島では開国した後キリスト教が入ってきて、これまで朝鮮半島で信仰されてきた道教や儒教がおろそかになってしまいます。

 

そんな時、崔済愚という人物が儒教や道教をまとめて新しい考え方である東学というものを作ります。

 

この東学は西洋から来た宗教(キリスト教)に対抗して東洋の宗教という意味でつけられました。

 

この東学の最大の特徴はとにかくキリスト教を弾圧したことです。

 

東学党の人たちは『斥倭洋』という言葉を掲げて度々西洋諸国の大使館やキリスト教の教会を襲っていました。

 

しかし、この襲撃によってこの東学党は朝鮮政府から弾圧を受けてしまいました。

 

反乱の勃発と日清戦争のきっかけ

(甲午農民戦争の始まりとともに広まった檄文 出典:Wikipedia

①甲午農民戦争の勃発

東学党の人たちは反乱を起こしていた農民たちとタッグを組んで大反乱を起こします。

 

これが甲午農民戦争の始まりです。

 

この大反乱の勢いはとんでもないもので、反乱の開始から2ヶ月ほどで全羅道という大きな地域を全部占領します。

 

もちろんこの反乱に閔紀たちも大混乱。直ちに清に援軍を派遣するようにおねだりしました。

 

しかし、天津条約があるため全然関係ない日本も朝鮮に援軍を派遣しました。

 

ただ清と日本は天津条約を結んだ後でも仲が悪い状態だったこともあり、両軍と朝鮮のために戦わず朝鮮の首都である漢城から動きませんでした。

 

これには朝鮮政府もショックを受けます。

 

そして政府は渋々農民の要求を認めて全州和約を結ぶことになりました。

 

結果、この大反乱は農民の勝利に終わりました。

 

②撤退しない両軍

反乱が終わって朝鮮政府は両軍に撤退しても良いと言いましたが、日本軍と清軍はどっちとも撤退しませんでした。

 

さらに日本は清に対して『最近朝鮮が暴れていて少し困っているから日本と清が一緒になって改革をしませんか?』と提案します。

 

しかし、清は『だったら日本は朝鮮から撤退しろ!』とこの提案を拒否。

 

清からして見たら朝鮮は清の属国。なんで朝鮮の改革に日本を入れなければいけないのかと思っていたはずです。

 

この拒否を受けて日本はついに清に対する戦争の大義名分を掲げることができます。

 

日本はすぐに朝鮮の宮殿を占拠し、朝鮮国王の高宗に清軍を追い払う命令を出すように命令します。

 

そして日本はついに朝鮮の独立という建前の口実を元に清と戦争することになるのでした。(日清戦争

 

 

まとめ

 甲午農民戦争とは、日本に対する圧力に屈している朝鮮政府の政治に不満を持った農民と東学党がタッグを組んで起こした反乱のこと。

 この反乱のおかげで日本と清はついに交戦状態となり日清戦争が起こった

 東学党とは道教と儒教を合わせた宗教を信仰している人の集団のことで度々西洋諸国の大使館やキリスト教の教会などを襲っていた

 甲午農民戦争は農民の快進撃によって朝鮮政府が渋々農民の要求を認めて農民の勝利に終わった。