今回は1882年(明治15年)に起きた朝鮮人兵士による“壬午軍乱”について、どのような反乱だったのか、この反乱により日本と世界はどのように変わっていったのかなど、簡単にわかりやすく解説していきます。

 

壬午軍乱とは

(壬午軍乱 出典:Wikipedia

 

 

壬午軍乱とは、1882年(明治15年)朝鮮の都「漢城(現在のソウル)」で起こったクーデターのことです。

 

クーデターを起こしたのは守旧派の大院君を担ぐ兵士たち。狙われたのは、新日で内政改革を進めていた閔妃派の閔氏政権、そして日本でした。

 

朝鮮の日本大使館が焼きうちされるなど、朝鮮にとっても日本にとっても大きなクーデターでしたが、それを鎮めたのは清国でした。大軍を朝鮮に派遣し、大院君を捕らえ、閔妃政権を復活させます。

 

反乱後、日朝間で済物浦条約が成立。清は朝鮮に対する宗主権の強化を図り、閔妃派は新日策から一転、新清策に転じました。

 

ここからは反乱がおきるまでの流れを詳しく解説していきます。

 

なぜ反乱が起きたのか?その背景

(寝転んでいる支配階級の人と働いている農民たち)

 

 

このころの朝鮮では、国王みずからが官職を売る、農民への厳しい取り立て、不平等条約に守られた日清両国の商人による収奪などで、民衆の生活は疲れ弱っていました。

 

そんな中、以下の出来事が起こります。

 

①大院君と閔妃の対立

(閔妃とされている写真)

 

 

このとき王宮の内部では、清国派・ロシア派・日本派など派閥にわかれ、外国勢力と結びついた権力抗争が繰り広げられていました。

 

とくに、政治の実権をめぐって、国王高宗の実父である大院君と、高宗の妃である閔妃が激しく対立していました。つまり、義父と嫁の戦いというわけです。

 

②守旧派と開化派

当時の朝鮮の国論は、大きく二つに分類されます。清の従属国としての立場を大事にし、強い勢力に従うことで外交政策を進めようとする守旧派と、朝鮮の近代化を目指す開化派の二つです。

 

守旧派のリーダーは大院君、開化派のリーダーは閔妃です。閔妃は開化派のなかでも中間的で穏健な立場をとっていました(新清開化派)。

 

二国が共存するなかで、自分たちの近代化も進めていこうという立場です。

 

③別技軍と旧軍

日朝修好条規の締結により、開国した朝鮮は、1881年(明治14)に大幅な軍制改革をしました。

 

その中心となったのが、閔妃率いる開化派。近代化が進んでいた日本から軍事顧問を招いて、「別技軍」という新しい装備を備える軍をつくりました。

 

別技軍は西洋式の訓練を行ったり、青年を日本へ留学させたり、武器は日本の最新式のものを支給されたりと、さまざまな点で優遇されました。

 

一方、従来からの軍「旧軍」は、旧式の武器が与えられるだけで、新しい装備や訓練はなく、差別的に扱われることが多々ありました。規模の縮小も続き、旧軍の不満は募る一方でした。

 

④俸給米の不足

当時の朝鮮では、給料(俸給米)は米で支払われていました。

 

しかし、財政難のため、軍隊への支給は1年も遅れていたのです。さらに、1882年の夏は、朝鮮半島が大規模な干ばつに見舞われ、穀物は不足し、朝鮮政府の財源は枯渇状態でした。

 

ようやく支払われた俸給米も、ひと月分にすぎず、さらには支給分の残りを着服しようとした役人が砂や腐敗米を混ぜていました。

 

これには旧軍兵士も激怒。役人を襲うなどの暴行をしますが、ほどなく官僚に投獄されてしまいます。しかし、これにまた激怒した各駐屯地の軍兵たちが、旧軍兵士の救命運動に立ち上がります。

 

この運動は次第に激化し、朝鮮政府への不満をもつ貧民や浮浪者も巻き込んだ大暴動…つまり、壬午軍乱へと発展していったのです。

 

壬午軍乱の勃発と終わり

①壬午軍乱の勃発

大院君を担ぐ反乱軍は、朝鮮の王宮にも乱入しましたが、閔妃は命からがら王宮を脱出することができました。

 

しかし、閔氏政権は倒れ、反乱軍が勝利。大院君政権は再び復活します。

 

それから約一ヶ月後、漢城に駐留していた清の軍が、大院君を拉致する事件が起きます。

 

②大院君の拉致

クーデターが発生から約一ヶ月後、反乱の鎮圧と日本公使の護衛を名目に、漢城駐留の清国軍によって大院君は拉致されます。

 

清国軍の働きにより、政権は再び国王の高宗と閔妃一族に戻り、反乱は終息します。

 

③済物浦条約

(済物浦条約 賠償金50万円&軍員の駐留について定めた第四・五款 出典:Wikipedia

 

 

清国の働きにより、閔氏政権が復活すると、済物浦(現在の仁川)に駐留していた日本の花房義質全権公使のもとへ朝鮮政府から謝罪文が送られます。

 

そして、1882年8月30日、済物浦条約が調印されました。

 

条約の内容は・・・

条約内容

反乱を起こした犯人の処罰

殺害された日本人官吏たちの慰霊

被害遺族らへの見舞金支給

朝鮮政府による公式の謝罪

日本外交官による内地旅行権

賠償金の支払い

大使館警備のための軍隊駐留の権利など

 

おおむね、日本側の要求が受け入れられた形となりました。

 

 

④中朝商民水陸貿易章程

一方、朝鮮と清国は中朝商民水陸貿易章程を天津で締結しました。

 

この条約では、旧来の朝貢関係が不変であること…つまり、朝鮮は清国の属国であるということが再確認されました。

 

壬午軍乱の終息を引き金に、清国は経済面だけではなく、軍事や外交の面でも朝鮮への介入を強めたのです。

 

壬午軍乱の影響

①朝鮮

壬午軍乱の結果、閔氏政権は新日から一転、清国の庇護のもとで開化政策を進めることになりました。

 

その結果、守旧派と対立してきた開化派は、清国とのつながりを大事にするグループと、以前のように日本とのつながりを大事にしようとするグループに分裂しました。

 

また、閔氏政権は清国の制度を見習った政治改革を行います。外交や通商、内政や軍務を担当する部署をそれぞれ設けました。

 

②清国

清国は、朝鮮内の親日派勢力を排除して、朝鮮への干渉を強めました。

 

以前は朝鮮の内政にまで関わろうとはしませんでしたが、属国である朝鮮に対し、宗主国としての権力と勢力をより強め、近代的な支配をしようとしました。

 

③日本

(襲撃された日本公使館)

 

 

日本では、壬午軍乱を描いた多数の錦絵小冊子が刊行されました。

 

日本公使館が焼きうちされ、日本人が朝鮮の暴徒によって殺害されたことは国民に広く知られ、国民主義(ナショナリズム)の反応が引き起こされました。

 

その後の国際情勢

 

 

日本と朝鮮の間で結ばれた済物浦条約は、朝鮮を属国として支配しようとする清国への牽制も兼ねられていました。

 

朝鮮半島を巡って日本と清国の対立は、壬午軍乱のあともつづき、甲申事変日清戦争へとつながっていきます。

 

 

まとめ

・壬午軍乱とは、朝鮮で起きた大院君による閔氏政権へのクーデター。

・日本大使館が焼き討ちされ、多くの死傷者がでた。

・清国の介入により、反乱はおさめられ、閔氏政権が復活した。

・日本が朝鮮に賠償を求めるなどの条約「済物浦条約」が結ばれる。

・朝鮮半島を巡る清国VS日本は、その後甲申事変や日清戦争につづく。




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