江戸時代後期になると、農村の荒廃や一揆、打ちこわしなどもあって、藩政の危機に直面する藩が増加していきました。

 

そんなとき、萩(長州)藩では越荷方を設置することによって、藩財政を改善することに成功します。

 

その他、各地で藩政改革を成功させて幕末に権力をもつようになった藩は、のちに雄藩と呼ばれ歴史に大きな足跡を残すようになります。

 

今回は『越荷方(こしにかた)』について、簡単にわかりやすく説明していきます。

 

越荷方とは?

(長州藩の位置 出典:Wikipedia

 

 

越荷方とは、萩(長州)藩が下関に設けた役所のことです。

 

越荷方では、下関を通る他国の廻船の越荷を抵当にして資金を貸し付けたり、越荷を買い取って委託販売も行いました。

 

その結果、萩(長州)藩は洋式武器を購入するなど力をつけていき、幕末に強い発言力と実力を備えることになりました。

 

越荷方が設置された背景

 

幕藩体制では農業生産品を年貢として取り立てることが基盤となっていましたが、19世紀にはいると深刻な行き詰まりを見せる藩が多くなりました。

 

その後、地主や問屋が家内工場を設けた問屋制家内工業が現れ、分業や協業がによる手工業へと発展したマニュファクチュア(工場制手工業)を営むものも出てきました。

 

このような資本主義的な発展による構造の変化によって、従来のまま藩体制を維持することが難しくなります。

 

こういった時期に差しかかる1831年、長州藩内で防長大一揆がおこります。

 

藩の機関である国産会所による専売に対して、年貢の減免、紙や蝋の専売の廃止などを求めた全藩一揆となる大規模な一揆でした。

 

もともと慢性的な借財に悩まされていた萩(長州)藩は、これを機に藩政改革を迫られることになります。

 

 

そこで、萩(長州)藩は村田清風を登用します。

 

(村田清風 出典:Wikipedia)

 

すると彼は、三七カ年賦皆済仕法と呼ばれる37年かけて返済をするという実質棚上げとするような返済方法で銀8万5000貫(約140万両)の借金を整理しました。

 

また、一揆の要求に応えて紙や蝋の専売制を商人による自由な取引ができるよう改正します。

 

そして、さらに行われた藩政改革が「越荷方」になります。

 

越荷方の内容詳細

 

越荷方とは、はじめにも説明した通り、萩(長州)藩が商業・交通の要衝である下関に設けた役所のことです。

 

村田清風が白石正一郎などの豪商を登用して設置したもので、実質的には藩営の金融兼倉庫業を行う貿易会社と言えるものでした。

 

具体的には・・・

  • 西日本諸国の廻船の越荷を抵当にして資金の貸し付け
  • 越荷を一旦買い取ってから委託販売
  • 積荷を一時保管するという倉庫業

などを行っていました。

 

その時に大坂の相場が低い商品は下関の倉庫で預かり、相場が高くなると大坂へ輸送して利益を増やすなど、工夫した経済政策によって莫大な資金を集めることに成功しました。

 

【Check!!】越荷とは?

越荷とは、主に北前船の積荷のことを指します。

 

北前船とは、北海道南西部の松前から日本海各港に寄港しながら下関を廻って大坂などに輸送した西回り海運で活躍した船のことです。

 

また、荷物を運ぶだけの運送業とは違って、船主が商品を売買することで利益を上げる買積み廻船でもあります。

 

北へ向かう下り荷には、米、酒、砂糖、瀬戸内海の塩、他には日用品など、一方の畿内方面に向かう上り荷には、鰊粕や干鰯などの肥料のほか、食用としての数の子や干しナマコなど海産物やその干物などがありました。

 

また、北前船は1年に1航路する場合、下りは3月下旬に大坂を出帆すると4,5月に瀬戸内海から日本海を北上し、5月下旬に蝦夷ケ島に到着します。

 

上りは、7月下旬に蝦夷ケ島を出帆し、8〜10月に各地に寄港しながら南下して11月上旬に大坂に到着します。

 

なお、上りの方が時間がかかるのは、対馬海流に対して逆流となってしまうためです。

 

越荷方のその後

①越荷方で蓄えた財力が軍事力に!

当時の北前船はとくに活躍していた時期でもあり、順調に利益を増やして大砲の鋳造や砲台の築造まで行うようになりました。

 

そして、尊王攘夷派の中心となった長州藩は、下関海峡を通過する外国船を砲撃する長州藩外国船砲撃事件などで実際に大砲や砲台など揃えた軍備を使うこととなります。

 

 

越荷方で蓄えた財力が軍事力に、さらには幕末における長州藩の存在感につながっていったことから、越荷方なくして幕末の長州藩の攘夷や討幕への動きはなかったかもしれません。

 

②その後

順調に利益を生み出していた越荷方ですが、大坂町奉行所より大坂に送られる商品の減少が物価上昇を招いているという指摘があり、大坂に送られる前の取引拠点として下関があげられました。

 

また、幕府は大坂一極集中の経済政策をとっており、そこで得た利益を融資に使わせるために幕府が大坂を守るという流れとなっていました。

 

大坂での利益が減ってしまうと、幕府が思惑通りに使わせることができるお金が減るため、越荷方は幕府からも睨まれることになります。

 

村田清風は、越荷方の問題だけでなく三七カ年賦皆済仕法への反発もあり、退陣することになります。

 

その後は、再び藩政に携わるもうまくいくことはありませんでしたが、今なお高い評価を得ています。

 

他藩の藩政改革

 

この時期には、多くの藩で財政危機の打開と藩権力の強化を目指す改革が行われました。

 

藩政改革に成功した藩は幕末に向け権力や発言権を持つようになり、雄藩による洋式工業は明治維新後に新政府となっても官営工場の模範となりました。

✔ 鹿児島(薩摩)藩

調所広郷が抜擢され、多額の借金を無利息や250年賦返済とし、大島・徳之島・喜界島特産の黒砂糖の専売化を強化することにも成功しました。

 

また、幕府が独占していた蝦夷地からの俵物を途中で買い上げて琉球と取引するなど、密貿易も財政の立て直しの一因となります。

 

その後、反射炉の築造に成功すると洋式工場を次々に建設し藩政を豊かにするとともに洋式武器を揃えて軍事力も強化しました。

 

✔ 佐賀(肥前)藩

鍋島直正は、役人を5分の1に削減したほか、本百姓制度の再建を目指して地主から小作地を一旦没収してから地主と小作人に再配分する均田制を実施しました。

 

また、陶磁器の専売を財源に、日本初の反射炉を築き大砲製造所を設けて藩の力を強めていきました。

 

幕末には、イギリスから輸入されていた最新兵器のアームストロング砲を自力で完成させました。

 

✔ 高知(土佐)藩

13代藩主の山内豊熈(やまのうちとよてる)は、西洋砲術の導入や倹約令を定めたほか、「おこぜ組」と呼ばれる改革派を登用し藩政改革を行いました。

 

15代藩主山内容堂(豊信)においても、革新派を起用し、軍備強化、財政改革、身分制度改革など、次々に藩政改革を行いました。

 

まとめ

 越荷方とは、萩(長州)藩が金融兼倉庫業を営むために下関に設けた役所のこと。

 村田清風がさまざまな改革を行ってきたが、多額の借金を37年賦返済にした三七カ年賦皆済仕法とともに萩(長州)藩の藩政改革の目玉であった。

 19世紀に入ると資本的主義的な工業生産がすすみ、農業からの年貢を基盤とする藩政では立ち行かなくなったことが背景にある。

 藩政改革を成功させた藩のうち、財力に加え軍事力を強化することで権力をも強化した藩は雄藩と呼ばれ、幕末に強い発言力と実力を備えることとなる。

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