【倶利伽羅峠の戦いとは】わかりやすく解説!!背景や経過・結果・その後など

 

人間って偉大な成功をするとなんか鼻が高くなって天狗になってしまうことが多々あるんですよね。

 

歴史というのはそんな天狗になった人がすぐに凋落することが多々あり、今回解説する源義仲もそんな天狗になってしまった人の1人だっだのです。

 

今回はそんな源平合戦の転換点でもあり、源義仲が天狗になってしまった戦争である『倶利伽羅峠の戦い(くりからとうげのたたかい)』についてわかりやすく解説していきます。

 

倶利伽羅峠の戦いとは?

(道の駅倶利伽羅 源平の郷 出典:Wikipedia

 

 

倶利伽羅峠の戦いとは、平安時代末期の1183年に平維盛率いる「平氏軍」と源義仲率いる「源氏軍」が北陸の越中と加賀の国境にある倶利伽羅峠と呼ばれる場所で激突した戦のことです。

 

この戦争によって源義仲は京都に上洛を果たすようになり、平氏は京都から去るいわゆる都落ちをしなくてはいけなくなりました。

 

この倶利伽羅峠の戦いは、治承・寿永の乱における戦いの一つです。

 

 

倶利伽羅峠の戦いまでのあらすじ

(源義仲 出典:Wikipedia

①源義仲の挙兵

時は1180年の平安京。この年京都では安徳天皇の即位に反抗した以仁王が挙兵し、各地の反平家の武士たちに蜂起を促した手紙を送っています。

 

これによって各地にいた平氏のライバルであった源氏が挙兵。源頼朝もこの時伊豆にて動き始めていました。

 

そんな中、信濃国の山奥に打倒平氏に燃えていた男がいました。

 

その男こそが今回の主人公である源義仲(木曾義仲)です。

 

義仲は以仁王の挙兵に呼応して信濃国にて挙兵し、越後経由で北陸道を使用し京へと向かいます。

 

②平安京の大飢饉

信濃国で義仲が動いたと聞いた平家の武将たち。

 

しかし、この時平安京では義仲が攻めてくるどころの話ではなくなっていたのです。

 

そもそも以仁王の挙兵で呼応したのは義仲や頼朝だけではありません。

 

各地の源氏が一斉に蜂起したため平氏はその対応に明け暮れていき、さらに極め付けには1182年に平安京で大飢饉が発生します。養和の飢饉

 

いくら強くても食料がなければ戦すらままなりませんので、なんとかして食料を確保したいという想いがあったのです。

 

そこで平氏は北陸道に目を向けます。

 

今も昔もですが北陸道周辺は米どころだったこともあり、ここさえ手に入れれば食料ななんとか手に入れる事ができます。

 

だからこそ平氏軍は北陸道を通って攻めてくる源義仲を叩き潰さなければならなかったのです。

 

そして1182年、平氏は平維盛を総大将とした10万の兵で義仲討伐に出発。遂に平氏と義仲との戦が始まるのでした。

 

③倶利伽羅峠の戦いの前哨戦

こうして北陸道を確保するために義仲を討伐する決意を固めた平氏軍。

 

さすがの義仲も10万の兵で来られたら流石にかなわず、火打城の戦いと呼ばれる戦では敗北を喫してしまい、越中国(富山県)に撤退してしまいます。

 

そして平氏が加賀と越中の国境の倶利伽羅峠にて膠着。両軍共ににらみ合いを始めました。

 

倶利伽羅峠における驚きの戦法

(出典:小矢部市HPパンフレット「義仲と巴マップ」より

①山に追い込む義仲軍

こうして倶利伽羅峠にてにらみ合いを始めた両軍。

 

しかし、義仲軍には約3万の兵しかおらず、平氏との差は3倍以上ありました。

 

義仲はこの3倍の差をなんとか埋めるために考えに考えます。

 

そんな時に思いついたのが奇襲を行い、山岳戦に持ち込むというものです。

 

源義仲は木曽育ち。信濃の山奥に住んでいたため山岳のことには慣れています。

 

さらに山岳戦に突入すると兵力が多ければ多いほど逆に動きづらくなってしまい危機に追い込まれてしまいます。

 

そして義仲は山岳戦にうまく持ち込むために義仲の腹心であった今井兼平に対して平氏軍を奇襲するように命令。

 

 

(今井兼平像 出典:Wikipedia)

 

 

兼平はこの命令に答え般若野と呼ばれる場所で平氏軍に見事に奇襲を仕掛けることに成功します。

 

こうして平氏は砺波山に籠るようになり、見事に義仲が思い描いていた山岳戦への構図が完成したのです。

 

②義仲の奇襲

こうして山に籠って順調に事が進んでいく義仲軍。しかし、ここで慌ててはいけません。

 

さらに平氏を油断させるために兵を何にもせずに待機させてしまいます。

 

これには平氏は義仲軍は怖気付いたとニッコリ。このまま押し切ればなんとかなると油断してしまいます。

 

ここまで来てまで思い通りに行き過ぎていますが、義仲はこれをチャンスと見て同じく腹心の樋口兼光という武将を平氏が本陣を敷いていた所を迂回して退路を断ちます。

 

 

(樋口兼光像 出典:Wikipedia)

 

 

ここまでくれば後は簡単です。義仲軍は平氏が寝静まった夜中に一気に奇襲。突然の敵の襲撃に平氏軍は逃げようとするものの、退路はすでに絶っていますので袋の鼠となった平氏軍は大混乱になります。

 

10万の兵は無残に義仲軍にやられるか、倶利伽羅峠に飛び込んで死ぬかの二者択一となり、10万いた平氏軍は壊滅的な被害を出して崩壊してしまいました。

 

こうして倶利伽羅峠の戦いは義仲の完勝に終わり、これにて義仲の北陸道制圧は揺るぎないものとなったのでした。

 

倶利伽羅峠の戦いのその後と影響

①義仲の快進撃と平氏の都落ち

倶利伽羅峠の戦いにて壊滅的な被害を受けて敗北した平氏軍。

 

こうして飢饉を救う頼みの綱であった北陸道は義仲の手に落ちてしまい、さらには10万の貴重な戦力を失ってしまうという大損害を叩き出してしまいました。

 

その後、義仲は北陸道を経由して倶利伽羅峠の戦い2ヶ月後には京近くの比叡山延暦寺まで進出しました。

 

こうなるともはや平安京にいたら平氏は平安京ごと滅ぼされるかもしれません。

 

平氏は仕方なく 三種の神器と安徳天皇を連れて京都を脱出します。いわゆる都落ちを余儀なくされました。

 

こうして平氏がいなくなった平安京。

 

義仲ははれてこのもぬけの殻である京に上洛を果たし、源氏の旗が平治の乱以降約20年ぶりに京に立てられたのでした。

 

②義仲の凋落

こうして義仲は上洛し、平氏を追い出すことに成功しましたが、人間って悲しいもので成功したらすぐに天狗になってしまうのです。

 

これは義仲でも例外ではなく、義仲はあろうことか皇族の即位問題に首を突っ込み始め朝廷から煙たい目で見られてしまいます。

 

また、もともと山奥の田舎の出身ですから礼儀作法というものを知らず、義仲軍の兵士たちは平安京にてやりたい放題。

 

盗みなんてのは当たり前でこの頃の義仲軍は傲慢という文字がピッタリと言わざるおえないものでした。

 

源義仲の最期

こうして貴族から煙たい目で見られてしまった源義仲。

 

この事を頼朝は見逃すことはありませんでした。

 

頼朝は自分の弟である源義経と源範頼を総大将とした軍を義仲討伐のために派遣します。

 

一方の義仲軍も義経との決戦に挑みます。

 

しかし、義仲の天狗は収まる事を知りません。

 

義仲は頼朝に自身の討伐命令を出したとして後白河上皇をいきなり襲って幽閉に追い込みます

 

上皇の幽閉なんて本来ならやってはいけないこと。それを義仲はやってしまったのです。

 

こうして義仲は最後の最後で人望という武将に一番必要な要素を失ってしまい、宇治川の戦いにて義経軍に惨敗。

 

 

近江経由で故郷信濃に敗走する途中で討死してしまいました。

 

義仲が討ち取られたのは倶利伽羅峠の戦いからわずか1年後の出来事で、義仲はこの戦いに平氏に完勝してしまったことが天狗になるきっかけとなり、そして自身を破滅に追い込んでしまったのです。

 

まとめ

 倶利伽羅峠の戦いは1182年に源義仲と平維盛の間で起こった戦のこと。

 この戦いが起こる以前以仁王が反乱の手紙を各地に送り源氏の人々は一斉に挙兵していた。

 この戦いは源義仲の作戦がうまくいき、平氏の軍を壊滅に追い込む大勝利を収めた。

 この戦いの後義仲は上洛を果たすが、その後凋落していき、最後には宇治川の戦いに敗れて討死した。

 

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