【教育勅語とは】簡単にわかりやすく解説!!意味や目的・内容やその問題点・廃止など

 

明治時代は、産業や技術にとどまらず、欧米の新しい制度・知識・学問・芸術・宗教などを取り入れ、教育・文化・思想・国民生活などに大きく影響を与えた「文明開化」に始まりました。

 

こういった西洋の影響を強く受ける時代にあって、国民に道徳教育や教育の理念の基本を示したのが「教育勅語(教育に関する勅語)」です。

 

ところが、この教育勅語は軍国主義に利用され、のちに神聖化されるようになります。

 

今回は、そんな『教育勅語(ちょくご)』について、簡単にわかりやすく解説していきます。

 

教育勅語とは?

(文部省が諸学校に交付した勅語謄本 出典:Wikipedia

 

 

教育勅語とは、1890年(明治23年)10月に発布された「忠君愛国主義と儒教的道徳が学校教育の基本であると示したか明治天皇の勅語」のことです。

 

(※正式には「教育に関する勅語」といいます)

 

「勅語」とは天皇のおことばのことであり、「勅」という字はもともと「いましめる」「ととのえる」といった意味を持ちます。

 

本文には「よく忠にはげみよく孝につくし」とある通り、忠君愛国を通じて国家主義重視への方向性を読み取ることができます。

 

その後、教育勅語は第二次世界大戦を経て、1948(昭和23)6月に廃止され、新たに教育基本法などが教育の基本として定められました。

教育勅語が出された背景と目的

①学制の公布

近代化をすすめるため、政府は1871年に文部省を設置し、1872年に学制を公布しました。

 

 

フランスに習って学区制をとり、8つの大学区を定め、さらに中学区、小学区と細分化して小学校の設置をすすめました。

 

計画通りにはいかなかったものの全校に2万以上の小学校が設置されると、個人の知識や技術習得が重視された教育は急速に広まります。

 

1875年には男子の小学校就学率が50%を超え、女子は18.7%となりました。

 

ただし、農村では児童も貴重な労働力であることや費用負担も軽いものではなかったため、反対する声もありました。

 

②教育令の公布

学制が国民生活の実情に合わない部分があったことから、自由主義的な発想のもとに地方の実情を考慮した教育令1879年に公布されました。

 

その内容は、学制の画一的なすすめ方を改めて権限を大幅に地方に任せるもので、就学義務の期間を少なくとも16ヶ月とすること、公立小学校の修業年限を8年から4年に短縮するものなどでした。

 

③改正教育令

教育令の緩和は混乱を招くこととなってしまい、翌1880年には教育令を改めることとなります。

 

そこには、自由民権思想の風潮を危惧した政府が、学校教育を統制していく狙いがありました。

 

重要な事項については国に認可を規定したり、町村立の学校は府知事県令の認可を必要とすることなど、地方の権限を中央に戻していくものでした。(中央集権国家

 

 

教学聖旨

教学聖旨とは、1879年に儒学者の元田永孚が道徳教育の重要性を説いたものです。

 

(元田永孚 出典:Wikipedia)

 

儒教を基本とした道徳教育を幼少の頃からバランスよく身につけるべきであることなどが述べられています。

 

近代化をすすめ立憲国家を目指す明治政府と対立するものの、天皇親政を基本に考える元田永孚は明治天皇から信頼を得て、自身の理念を教育勅語で表現することになります。

 

教育勅語の内容

(教育勅語御下賜之図 出典:Wikipedia)

①原案の起草から発表

18902月に「徳育涵養の義に付建議」が決議され、知識や技術の習得を中心とした学校教育において道徳教育を育成することも重視していくこととなります。

 

その原案は、当時の山縣有朋内閣で文部大臣となった芳川顕正中村正直に原案を起草させました。

 

(中村正直 出典:Wikipedia

 

しかし、中村正直の原案は宗教色が受け入れられず、法制局長官の井上毅が代わることになります。

 

(井上毅 出典:Wikipedia) 

 

井上は中村原案の宗教色を廃し、前年に発布された大日本帝国憲法の理念である「君主主義」と「立憲主義」をもとにした原案をつくりました。

 

 

また、井上は教育聖旨を起草した枢密顧問官の元田永孚の協力を得ながら完成させました。

 

189010月に政治的文書としてではなく天皇の言葉として「教育に関する勅語」が発表されました。

 

②内容詳細

文部省が諸学校に交付した勅語謄本の現代訳は以下になります。

朕が思うに、我が御祖先の方々が国をお肇めになったことは極めて広遠であり、徳をお立てになったことは極めて深く厚くあらせられ、又、我が臣民はよく忠にはげみよく孝をつくし、国中のすべての者が皆心を一にして代々美風をつくりあげて来た。これは我が国柄の精髄であって、教育の基づくところもまた実にここにある。

 

汝臣民は、父母に孝行をつくし、兄弟姉妹仲よくし、夫婦互に睦び合い、朋友互に信義を以って交わり、へりくだって気随気儘の振舞いをせず、人々に対して慈愛を及すようにし、学問を修め業務を習って知識才能を養い、善良有為の人物となり、進んで公共の利益を広め世のためになる仕事をおこし、常に皇室典範並びに憲法を始め諸々の法令を尊重遵守し、万一危急の大事が起ったならば、大義に基づいて勇気をふるい一身を捧げて皇室国家の為につくせ。かくして神勅のまにまに天地と共に窮りなき宝祚(あまつひつぎ)の御栄をたすけ奉れ。かようにすることは、ただに朕に対して忠良な臣民であるばかりでなく、それがとりもなおさず、汝らの祖先ののこした美風をはっきりあらわすことになる。

 

ここに示した道は、実に我が御祖先のおのこしになった御訓であって、皇祖皇宗の子孫たる者及び臣民たる者が共々にしたがい守るべきところである。この道は古今を貫ぬいて永久に間違いがなく、又我が国はもとより外国でとり用いても正しい道である。朕は汝臣民と一緒にこの道を大切に守って、皆この道を体得実践することを切に望む。

(引用:Wikipedia

 

これでは少々わかりずらいので、もう少しかみ砕いて説明していきます。

 第一段

歴代の天皇の御徳は深く厚いものであり、臣民がこれまで忠孝の美徳を発揮してきたのは日本の国柄のもっとも優れたところであって、教育の根元も実にこの点にあるとこれまでの日本について書かれています。

 

 第二段

前半は、臣民は父母に孝を尽くし、兄弟仲良く、夫婦は協調し、友達は信じ合うことなど他人や自分への忠孝や愛について述べられています。

 

後半は、学問を修め、仕事を習い、知能を伸ばすなど自分を磨くことで世の中のために、国家のために働き、また、皇室の運命助けるようにしなければならないとあります。

 

 第三段

道徳は皇室の祖先が残した教えであり、その子孫や臣民が守るべきもので、昔から今まで誤りのないことであるとされ、さらには臣民とともに心にとどめ、この美徳を第一にするよう心がけてほしいと希望していると結ばれています。

 

教育勅語のその後

①勅語による影響

主権者である天皇が道徳教育に関することばを示したことで、天皇とは政治的影響だけでなく思想への影響を与えるものになっていきます。

 

そして、全国の学校に配布され、学校で奉読されるようになると、大きな効果を発揮するようになっていきます。

 

また、当時中学校の教員であった内村鑑三が、教育勅語奉読式で最敬礼をしなかったことで激しく非難されることがありました。

 

この内村鑑三不敬事件は、教育勅語が絶対的なものであると知らしめることにもなり、また、小学校令により教育勅語の奉読が定められるきっかけにもなりました。

 

1903年に国定教科書の制度が始まると、翌1904年には教育勅語の趣旨に沿った修身科という科目の教科書も国定となり、広く国民に浸透してきました。

 

②第二次世界大戦

皇室を否定する運動を取り締まる治安維持法が定着する1930年代になると、天皇および教育勅語は神聖化されていきます。

 

 

1938年に国家総動員法が制定されると、教育勅語の「公ニ奉シ」(国家のために働き)や「皇運ヲ扶翼スヘシ」(皇室の運命をたすけるようにしなければならない)の部分が軍国主義に利用されることになりました。

 

 

また、1937年の「国体の本義」に続いて、文部省は1941年に「臣民への道」を発行し、個人主義を否定して国家への奉仕を第一とする在り方を示しました。

 

こうして日本は第二次世界大戦へと突き進んでいくことになります。

 

 

③教育勅語の廃止

第二次世界大戦敗戦後の194510月には軍事主義的教育が停止され、教科書の軍事教育に関する部分は削除の命を受けます。

 

さらに、12月には修身などの科目において教科書による授業は停止命令が出され新しい教科書が発行されました。

 

1946年には「勅語及び詔書等の取扱いについて」の通達によって教育勅語を規範とすることや教育現場での奉読が廃止されることとなります。

 

1947年に教育基本法学校教育法が公布・施行されても、教育勅語の朗読はなくなっておらず、GHQの意向から1948年に衆議院で「教育勅語等排除に関する決議」、参議院では「教育勅語等の失効確認に関する決議」が全会一致で決議されました。

 

 

④廃止後の日本の教育

教育基本法では民主主義的な教育理念のほか、教育の機会均等義務教育男女共学などについて示されました。

 

さらに、学校教育法で六・三・三・四制が、1948年には教育委員会法で公選制の教育委員会都道府県や市町村に設置することとなりました。

 

廃止された教育勅語は、軍事教育を連想させるものであると考えられるため、積極的に論じられることはなくなりました。

 

しかし、教育勅語はもともと軍事教育のためのものではなく道徳的な教育がなされているのみであるということなどから再評価されたり復活を求める声は根強く、近年では教育勅語を教育理念として取り入れる学校も出てきています。

 

まとめ

 教育勅語とは、日本の学校教育の基本方針を示す明治天皇の勅語のこと。

 教育勅語の内容は忠君愛国と儒教的道徳が強調されており、全国の学校で学校儀式などの場で奉読された。

 第二次世界大戦時には軍事教育に利用され、神聖化されることとなる。

 教育勅語は第二次世界大戦後すぐに廃止され、教育基本法などが教育の基本として定められた。