【三国干渉とは】簡単にわかりやすく解説!!仏・独・露が日本へ行った勧告のこと

 

明治時代になると、日本もそうですが世界各国が自分の国が強いんだぞ!とアピールするようになります。

 

そして強さを表す象徴として領土を広げたいと思うようになります。

 

戦争が起こり、そして戦争に勝つと領土を広げるような条約などを締結する、そしてまたその領土をめぐって国同士が対立するという流れになってきます。

 

「国」対「国」ということになりますが、自国だけでは力不足なので国同士協力して戦おうという動きを見せ始めます。その中の一つが三国干渉です。

 

今回はそんな「三国干渉」について、簡単にわかりやすく解説していきます。

 

三国干渉とは?

(遼東還付条約 出典:Wikipedia

 

 

三国干渉とは、1895年4月23日、フランス、ドイツ、ロシアの3国が日本に対して行った勧告のことをいいます。

 

勧告は、日本と清の間で結ばれた下関条約に基づいて日本に割譲された遼東半島を清に返還することを求めるという内容でした。

 

結果、日本は遼東還付条約に調印。遼東半島を返還することになりました。

 

ではその元となった下関条約とは?

(下関条約調印の様子 出典:Wikipedia

 

 

1895417日に調印された下関条約、正式名称は日進講和条約が日本と清(現在の中国)で結ばれた条約です。

 

これは日本と清との間の戦争で日本が勝利したため日本が好条件となる条約を結べたわけですね。

 

その下関条約の内容には、

  • 負けた清に対して賠償金を支払う
  • 清の国の中の市を日本に開放する
  • 日本に清の所有する領土を渡す

などがありました。

 

その中の一つに、日本に遼東半島を永遠に日本に分ける、そしてその領土には兵器製造所などもあったことから日本は日本としての領土を広げようとしたのですね。

 

三国干渉はこの下関条約の遼東半島の部分に対して、やっぱり清に返しなさいとフランス、ドイツ、ロシアが日本に対して言ってきたのです。

 

 

三国干渉が起こった背景

ではどうしてその三国が日本に対して勧告をしてきたのかみていきましょう。

 

日清戦争が起こって日本の勝利がだんだんとわかってきたころ、世界の力が強い国は日本が勝ったらどういうことになるのか、ということを考え始めます。

 

 

もちろん戦争に勝つことで権力を持つことができる、負けた国を支配することができる、そうなると周辺の国はどうなるのか、自分の国も日本にやられてしまうのではないか、を日本を恐れるようになるのはわかりますよね。

 

そして日本が勝つことをおそれたロシア、ドイツが日本にちょっと待ったと言える状態を作ろうと動き始めました。

 

ロシアは、ドイツも強い国だから、ドイツと手を組めば東側に進出しやすくなると考えました。

 

また、勢力が弱まってしまった清の国の領土はだれもが欲しいと考えるようになったのです。

 

下関条約の遼東半島を日本の手に渡ってしまったら、自分たちが進出する政策がうまくいかないと思ったわけです。

 

結果ロシアとドイツはなんとかして遼東半島を日本のものにさせるかー!となってフランスも加わって干渉(立ち入って妨害する)したわけです。

 

三国干渉を受けて日本はどうなった?

(当時の首相 伊藤博文 出典:Wikipedia

 

 

上記のようにロシア、ドイツ、フランスに遼東半島を清に返せよと言われてしまった日本。

 

これに対してどうしたかというと、首相の伊藤博文、外相陸奥宗光で意見が分かれましたが、結果、日本は三国干渉の内容となった遼東半島を清に返還することとなりました。

 

でもここでポイントは、ただ単に清に遼東半島を返したわけではなく、その代り3000万両、現在の価値でいうと4500万円を払ってもらいました。

 

この日本の政府の動きに対して、国民は、激しく反発。

 

政府は【臥薪嘗胆】をスローガンに国民の反発を対ロシアに向けるようにして、より海軍強化をしていくようにしました。

 

このロシアを敵視することがのちの日露戦争のきっかけとなるのです。

 

 

スローガンの臥薪嘗胆とは?

日本政府が掲げたスローガンの【臥薪嘗胆】とは中国の故事で、復讐を成功させるために苦労に耐える、という意味なのです。

 

政府が国民からの大非難を苦労とし、それをロシアへの復讐の材料として耐えて、海軍艦隊に強化に力を注いだということになります。

 

当時この臥薪嘗胆という言葉が流行したとさえも言われています。

 

それほどロシアに対する反発心が高かったのですね。

 

三国干渉の覚え方

 

覚えやすい語呂合わせをいくつかご紹介します。

 

語呂合わせ①

違約ごめん と下関条約

(1895) 

 

語呂合わせ②

フロイドは一泊5万で三国干渉!

・フロイド→フランス、ロシア、ドイツ

・一泊5万→1895

*ただしこの場合“イ”をイギリスと覚えてはいけません。

 

三国干渉と三国協商は全く別物

日本史の近現代史において【三】という数字が多くでてきますので、それぞれ整頓しておく必要があります。

 

間違えないようにそれぞれをきちんと理解しておきましょう。

 

三国干渉は上で述べてきたとおりです。三国協商、三国同盟、があります。

 

①三国同盟(1882年ドイツ、オーストリア、イタリア)

三国干渉があった1895年ころ、ヨーロッパではなにが起こっていたかというと各国が海外進出を巡って対立をし始めます。

 

その中でまずドイツが1882年にオーストリア、イタリアと三国同盟を結びます。

 

同盟を結ぶことでより強い国を倒していこう!と協力する体制をとるわけです。

 

 

②三国協商(1882年フランス、ロシア、イギリス)

これに(三国同盟)対応してフランスはロシアとまず同盟を結びます。

 

その後にイギリス、フランスが英仏協商を結びます。イギリスとロシアで英露協商をそれぞれ結ぶことにより、フランス、ロシア、イギリスの3国で三国協商が成立するということになります。

 

三国同盟に対立したのが三国協商ですね。それぞれの国をきちんと整頓しておきましょう!

 

まとめ

 日清戦争に勝利したため日本に有利な下関条約を結んだ。

 遼東半島が日本の領有となることを恐れたロシア、ドイツ、フランスが下関条約の中の遼東半島を返還するように日本に勧告してきた。

 この勧告を日本の首相である伊藤博文、外相の陸奥宗光が承諾した。

 代わりに3000万両を受け取った。

 日本政府の承諾によって国民のロシアへの反発が広がった。

 政府及び日本国内では【臥薪嘗胆】をスローガンに反ロシアの感情が強まった。

 三国干渉がのちの日露戦争のきっかけとなってしまった。

 三国同盟、三国協商とは全く別物。