日清戦争の講和条約である下関条約。

 

知っている人は多いと思いますが、その詳しい内容を理解している人は少ないでしょう。

 

そこで今回は、そんな『下関条約(しものせきじょうやく)』の内容とその条約によって日本と清がどのような影響を受けたのが?を簡単にわかりやすく解説していきます。

 

下関条約とは?

(1895年 日清講和条約締結 出典:Wikipedia

 

 

下関条約とは1895年(明治28年)に結ばれた『日清戦争の講和条約(戦争状態を終結させるための条約)』のことです。

 

正式名称は日清講和条約ですが、テストでは下関条約でも問題ありません。

 

下関条約までのいきさつ・調印場所

(講和会議の会場となった春帆楼)

 

 

1894年(明治27年)、日本と清は甲午農民戦争をきっかけに日清戦争に突入しました。

 

 

日本は明治維新以降近代化を推し進めており、日本は清国のようにあまり近代化の進んでいない国に圧勝することができました。

 

清は絶対に勝てないことを悟って日本に講和を頼み込みます。

 

そして、1895年3月19日に清国の代表李鴻章(りこうしょう)が来日して伊藤博文のゆかりの地であった「下関」で講和交渉が始められることになりました。

 

日本側は伊藤博文と陸奥宗光が代表として出席します。

 

下関条約の内容

(1895年 調印された日清講和条約 出典:Wikipedia

 

 

下関条約では5つの項目がありました。この5項目について順に見てみましょう。

 

朝鮮の独立を認めること

これは文字通り朝鮮の独立を認めたものです。

 

朝鮮はもともと清の支配下に置かれていましたが、独立を認めることによって清の朝鮮半島での影響力をなくし、その代わり日本は大陸進出の足がかりを手に入れることになりました。

 

また、北にはロシア帝国が不凍港を求めて南に進出しようと画策していました。

 

そこで、日本は朝鮮を独立させてもしロシアが攻めてきた時に緩衝国としての役割を持たそうとしたのです。

 

遼東半島を日本に譲り渡すこと

遼東半島(りょうとうはんとう)とは遼寧省の南部に位置する中国第二の大きさの半島です。

 

この半島は戦略上とても重要な土地として知られていました。

 

※この半島はのちに三国干渉で返還されることになるのですが、日露戦争の後に関東州として日本の手に渡り、第二次世界大戦終戦まで保持し続けることになるのです。

 

 

台湾と澎湖諸島を日本に譲り渡すこと

台湾は日清戦争の前に日本といざこざがありましたが、この時から第二次世界大戦終戦まで日本の領土になりました。

 

台湾は後に日本の下で大発展を遂げることになります。

 

澎湖諸島(ほうこしょとう)は台湾の東側にある諸島でこの周辺は漁業するのに適していました。

 

賠償金として2億両を日本に支払うこと

もちろん清は敗戦国ですから賠償金を支払わなければいけません。

 

そしてこの講和会議で日本に2億両を支払うことになりました。

 

この2億両は、この当時の日本の国家予算2年分と同じぐらいの莫大な額でした。

 

そして日本はこの賠償金を元に様々な政策を行なっていきます。

 

(おまけ:『両』という単位は銀の重さで決められていました。一両が大体37.5gです。2億両はそれの2億倍ですから大体800万kgの銀が日本のものになりました。)

 

日清通商航海条約の締結と沙市・重慶・蘇州・杭州の開港・開市またその地での治外法権などを認めること

この日清通商航海条約とは、いわゆる不平等条約のことで最恵国待遇関税自主権を清に認めさせました。

 

 

また、清はこの当時外国人は限られた場所でしか貿易ができなくて商売するには不便でした。

 

しかし、この条約の通り開港・開市することによって簡単に清で貿易する事が可能になりました。

 

また、開港・開市した場所での日本に対する治外法権を認めさせ、清を日米修好通商条約後の日本みたいな状態にさせました。

 

 

下関条約直後の出来事

(土屋光逸筆『請和使談判之圖』 出典:Wikipedia

 

 

日本はこの下関条約によって様々な利益を得ることに成功しますが、それをヨーロッパの列強国は黙っていません。

 

特に遼東半島の割譲はロシアにとってみれば、とても不都合だったので見逃すわけにはいけませんでした。

 

ロシアは当時仲が良かったフランスとドイツと一緒に日本に対して遼東半島の返還するように圧力をかけました。

 

それがいわゆる三国干渉です。

 

 

日本は今の状態ではどうすることもできなく、渋々中国に遼東半島を返しましたが、もちろんただで返すわけではなく、日本は遼東半島を返還する見返りに3000万両(4000万円)をもらうことになりました。

 

賠償金の使い道

(日本海海戦の様子)

 

 

日本は下関条約と三国干渉によって合計2億4000万両の大金を得ることができました。

 

しかし、国内では三国干渉の後にロシアに対する反感の感情が生まれていきます。

 

政府はそのような国内情勢を見て『臥薪嘗胆』をスローガンとして艦船建造計画をはじめとする軍拡を推し進めていきます。

 

賠償金はその軍拡のための資金にどんどん消えていき、最終的に賠償金の83%が軍事費として使われました。

 

(ちなみに八幡製鉄所が下関条約での賠償金によって作られたのは有名ですが、掛かった費用はたったの72万円でした)

 

しかし、この軍備拡張が後に日本海海戦(日露戦争中の最大規模の艦隊決戦のことで大勝利をおさめる遠因となっていくのです。

 

 

下関条約後の清について

『眠れる獅子』と言われた清が、文明開化してからあまり時が経っていない日本にあえなく敗北したのを機にただでさえなめられていた清がさらにどんどんなめられていきます。

 

しかも、清は賠償金の支払いを列強からの借金で賄おうとしました。列強はそれに目をつけます。

 

列強は「お金はいくらでも貸してあげるからその代わりに清の領土や港をもらうね!」と言い中国の土地を奪っていきました。

 

そして、その結果、満州からモンゴルをロシアが、長江流域をイギリスが山東省をドイツが、広東省・広西省をフランスが影響下に置くことになりました。

 

さらに、ロシアは三国干渉の後に清から遼東半島の大都市であった大連を租借地としてもらい受け海軍基地を築き上げます。こうしてロシアは念願の不凍港を手に入れることができました。

 

このような清の半植民地化は第一次世界大戦が終わるまで続けられました。

 

まとめ

 下関条約とは、日清戦争後に清と結んだ日本にとって圧倒的に有利な講和条約のこと

 日本は遼東半島を手に入れるがロシアなどの列強から圧力がかかって渋々清に返還した

 清から貰った賠償金はほとんど軍備拡張に使われたが、この軍備拡張が後に日露戦争で役に立った。

 清はこの条約以降列強の半植民地化が進んでいった。




関連キーワード