【樺太千島交換条約とは】簡単にわかりやすく解説!!地図あり。なぜ結ばれた?内容は?

 

明治維新後、新政府は諸外国、特に欧米諸国に対する遅れを取り戻そうと努力をします。

 

その中でも、外交対策として幕末に結ばれた欧米諸国との不平等条約の改正を推し進めていきます。

 

幕末からロシアはアメリカに次いで日本に対し、強硬姿勢を貫いてきました。

 

そして今回触れる「樺太千島(からふとちしま)交換条約」は、現代の北方領土問題にもつながっていますので、要点をしっかり押さえましょう。

 

樺太千島交換条約とは?

(樺太千島交換条約 出典:World Imaging

 

 

樺太千島交換条約とは、1875年(明治8年)にサンクトペテルブルクで結ばれた、日露国境確定条約(サンクトペテルブルク条約)のことです。

 

北海道開拓を優先し、樺太放棄を主張した開拓使次官黒田清隆の意見が通り、中露公使を務めていた榎本武揚が全権公使として条約にサインをしました。

 

ロシア全権は外務省アジア局長アレクサンドル・ゴンチャロフロシア外相です。

 

樺太千島交換条約の内容

(樺太千島交換条約前後の両国領土 出典:内閣府北方対策本部ホームページ

 

 

樺太千島交換条約の内容は、日本とロシア帝国との間の国境を確定することです。

 

具体的には、樺太全土をロシアに譲ることによってその権益をすべてロシアに譲るというものです。

 

その代わりとして千島全土を日本領に定めて樺太における日本とロシア両国の財産を買い取り、漁業権を認めるなどを取り決めました。

 

なぜ樺太と千島なのか?

それを理解するためには、幕末までさかのぼりましょう。

 

1853年(嘉永6年)のペリー来航直後に、ロシア大使プチャーチンが長崎に来航しました。

 

 

(エフィム・プチャーチン 出典:Wikipedia

 

 

その際、プチャーチンは幕府に対して開国と、あいまいだった北方の島々の国境を定めることを求めてきました。

 

そして翌年1854年(安政元年)、下田にプチャーチンが再来航し日露和親条約を結びます。

 

 

日露和親条約の内容

(日露和親条約の原文 出典:Wikipedia

 

 

この条約は、幕末から現代の北方領土問題にまで関係する条約なので流れとして覚えておくことをおすすめします。

 

日露和親条約①開港

長崎の開港です。

 

下田、函館は日米和親条約で開港が決まっていますから、長崎も追加されたということですね。

 

日露和親条約②北方の国境の決定

日本とロシアの間に位置する北方の島々はロシア人、アイヌ、日本人が雑居生活をしていました。

 

ですが、国境をあいまいにしたままだと国の利益に関わりますから、両国とも国境を自分の国により有利になるように決定したかったのです。

 

決まったこと

  • ロシア領:千島列島の得撫島以北
  • 日本領:千島列島の択捉以南
  • 両国人雑居:樺太

 

樺太をロシアに譲った理由

①ロシアの樺太進出

1856年にクリミア戦争が終結するとロシアは樺太開発を本格化しました。

 

クリミア戦争は近代史史上でも大きな戦争なのですが、ロシアは負けてしまいます。

 

そのため国内の政治改革をしなくてはならず、ヨーロッパにおける権力も失ってしまいました。

 

そこで欧米諸国よりもまだまだ近代化が進んでいなかった日本、つまり江戸幕府に強気な姿勢で迫ってきたのです。

 

②政府内部からの北海道開拓優先意見

クリミア戦争以降ロシアの樺太進出が本格化したことによって、樺太はロシア人、アイヌ、日本人が雑居し不安定な状況となりました。

 

新政府になってから日本国内では、開拓事業に対して意見が対立します。

 

開拓事業に対する2つの意見

①福島種臣「外務卿案」

樺太全域を日本領にする。

 

もしくは、南北分断しロシアと日本での完全な住み分け

 

②開拓次官「黒田清隆案」

本土から遠く離れた樺太をロシアに譲り、北海道開拓に全力を注ぐべき、ロシアがクリミア戦争に負けたとはいえ、日本にとっては政治、戦力、経済全てにおいて強国です。

 

さらに福島種臣は征韓論により政界から民間に下ってしまったことにより、黒田案が優勢となりました。

 

 

では北海道開拓はどのようにして行われるようになったのでしょうか。

 

対ロシア政策としての北海道開拓

(アイヌ民族 出典:Wikipedia

 

 

幕末から日本をロシアから守るために、蝦夷地の開拓が行われます。

 

蝦夷地はもともとアイヌ民族が生活していました。

 

 

幕末の開拓は本土とは違う自然環境に対応できず失敗に終わります。

 

では新政府はどのように開拓を進めていったのでしょうか?

 

①開拓使の設置

明治新政府誕生後、蝦夷は北海道と名称を変更します。

 

そして、開拓の中央官庁として開拓使が設置されます。

 

 

その次官(のち長官)に就任したのが黒田清隆でした。

 

1872年に開拓使10年計画が決定し、幕末に本土とは全く違う厳しい自然環境により失敗した蝦夷地の開拓に新政府は多額な国費をかけて、北海道開拓を行いました。

 

その1つとしてアメリカ農務長官ケプロンに開拓使顧問を依頼しました。

 

実は開拓前のアメリカは日本の蝦夷と自然環境も、原住民がいたという点でも似ていたため、アメリカ人のケプロンに顧問を依頼したのです。

 

②開拓人材育成機関「札幌農学校」の設立

1857年には開拓使の人材育成機関としてクラークを招き、札幌農学校を設置しました。

 

札幌農学校は、伊藤博文をはじめ沢山の政治家たちが卒業していきましたね。

 

樺太放棄を主張した開拓次官『黒田清隆』

(黒田清隆 出典:Wikipedia

 

 

当時、黒田清隆は北海道開拓次官を務めていました。

 

黒田は日本をロシアから守るために、北海道開拓が最優先事項であると考え、北海道から樺太にかけての大きな開拓構想を練りました。

 

それが上に記した内容になります。さて、黒田清隆はどんな人だったのでしょうか?

 

黒田清隆の経歴

黒田はこの後も新政府に貢献していくので簡単に経歴を押さえておきましょう。

 

経歴

 

出身:鹿児島(薩摩派)

 

1872年 北海道開拓次官就任。のち長官に就任

 

1875年 樺太千島交換条約を主張

 

1876年 日朝修好条規を結ぶ

 

1881年 開拓使官有物払い下げ事件により辞任

 

1888年~89年 黒田内閣 ※89年 大日本帝国憲法発布

 

1889年以降 枢密院議長 元老を務める

 

 

全権公使「榎本武揚」ってどんな人?

次に条約を結んだ榎本武揚に注目してみましょう。

 

榎本は黒田とは違い、幕臣だったのです。オランダへ留学後、海軍奉行に就任しました。

 

そして幕末の戊辰戦争では五稜郭の戦いで官軍に反抗していたのです。

 

 

つまり、黒田と戦っていたということです。

 

維新後は藩閥政府の中で逓相、文相、外相、農商務省を歴任した切れ者でした。

 

まとめ

 樺太千島交換条約とは、1875年(明治8年)に結ばれた、日露国境確定条約のこと。

 条約内容は両国雑居地だった樺太をロシアへ譲り、千島列島を日本領土とするというもの

 樺太をロシアに譲ったことにより、北海道開拓を本格化させ対ロシア政策とした。

 樺太千島交換条約は、幕末に結んだ不平等条約改正の1つ(日露和親条約→樺太千島交換条約)。